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ルツ記 1章1~22節 [ルツ記]

<あなたの民は私の民、あなたの神は私の神。あなたの亡くなられる所で私も死に、そこに葬られたいのです。あなたを離れるような事をしたなら、主よ、どうか私を幾重にも罰して下さい(16節)>

紀元前1300~1200年士師記の時代、「飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。(1節)」と、始まる。聖書巻末の地図3によると、ベツレヘムから異邦人が住むモアブは死海の東側で、イスラエルとは敵対関係になる地であった。しかし、飢饉の中で生き延びるため、少しでも肥沃とされるモアブの地に向かうしかなかったのだろう。

彼らが異邦人モアブの人たちに受け入れられたのか、食物は十分にあったのか想像に難くない。やがて夫が死に、2人の息子が結婚後に死んでしまう。男手が無くなりさらに厳しい生活は続く。家を継ぐ孫も生まれることなく、遺された女3人、飢饉はここでも続き力仕事にも苦労する。ベツレヘムから離れるのではなかったと愚痴る事もあったろう。

「ナオミはモアブの野を去って国に帰る事にし、嫁たちも従った。(6節)」しかし、故国に帰る道すがら、彼女は2人に「自分の里に帰りなさい」と言った。彼女はやもめとなったモアブ人の彼女たちが、ユダの地で再婚相手を見つける事が出来るとは考えられなかった。「帰りなさい。・・・あなたたちよりも私の方がはるかにつらいのです。主のみ手が私に下されたのですから。」と、言った。

苦労を担うのは自分だけで十分だと言うと、2人は声をあげて泣いた。弟嫁はナオミの説得に根負けし別れの口づけをしたが、ルツはナオミに縋り付いて離れなかった。そのルツをさらに説得するナオミに。

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。・・・あなたの民は私の民、あなたの神は私の神。あなたの亡くなられる所で私も死に・・・あなたを離れるような事をしたなら、主よ、どうか私を幾重にも罰してください。」とルツは言った。

「ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まる頃であった。(22節)」

「ルツにはモアブ人の血が流れ、偶像礼拝の環境で育ち、生まれも見た目もモアブ人でしたが、いつの間にか中身はイスラエル人になっていました。主なる唯一の神を信仰するナオミの信仰が神によって用いられルツを変えたのです。私たちの存在意義もここにあるのではないでしょうか。」と、K牧師は話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「もう少しましな顔だと思ってた二か月ぶりの床屋の鏡 小島順一」


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ローマの信徒への手紙  2章17~29節 [ローマの信徒への手紙]

<内面がユダヤ人であるものこそユダヤ人であり、文字でなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉は人からではなく、神から来るのです。(29節)>

「ユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた民であって、選ばれていない異邦人とは違う。自分たちは神の御心を知り、神にどう仕えたらよいかが分かっているので、自分たちは罪人ではない。神の前に正しい者なのだという自負、誇りを強く持っていました。」と、K牧師は話し出された。

ユダヤ人は、律法の中に知識と真理とが具体的に示されていると考え、自分たちは盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負し、異邦人に対して優越感を持っていた。そこでパウロは「それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。」と厳しく追及した。

彼らは律法を与えられている事を、自分たちは神に選ばれた民であることの「印」であると考えていた。「神を誇りとし(1節)」、神に選ばれた民であることを誇りとし、神を知らず、律法を与えられていないとして異邦人を軽蔑する。それは、神を自分たちが持つ所有物の一つのようにみなし、神を自身の誇りの種にしていることに他ならない。

「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている。(24節)」 律法を知る者の生き方を通して異邦人は神を崇めているだろうか。むしろ「盗むな」と説いて盗む、「姦淫するな」と教え姦淫を行う、律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮る、あなた方ユダヤ人の信仰を通して異邦人たちは「神はそういう人なのだ」と思っているのではないかと、パウロは指摘する。

割礼はユダヤ人と異邦人を区別するものであった。男子は自分が神の民ユダヤ人であることを体に刻み付け特別な民とされていると思っていた。その彼らに「割礼も律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じ」だとパウロは言った。律法や割礼だけで自分たちは特別だと思い、異邦人を見下す彼らに、あなた方も神の前に罪人だとパウロは断言した。

7節でパウロは「あなたはユダヤ人と名乗り」と単数で語り、25節も「あなたが受けた割礼」となっている。パウロはこの手紙を読む者に「これは、あなたのことだ」と語る。この手紙が記された頃、ローマ教会の人々の中には、ユダヤ人もいたが、むしろ異邦人の方が多かった。その教会に対して、パウロはユダヤ人の罪を「あなた」という言葉を使って指摘するのだとK牧師は話された。

そして「これはキリストを信じて、教会に連なる『あなた』への忠告ではないでしょうか。」と言われた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ブレーキを幾度踏めど止まらざる夢をまた見ぬ水面が迫り 村上和子」


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雅歌 7章10節~8章4節 [雅歌]

<朝になったらぶどう畑に急ぎ、見ましょう、ぶどうの花は咲いたか、花盛りか。ざくろのつぼみも開いたか。それから、あなたにわたしの愛をささげます。(13節)>

「雅歌は、若い男女の恋愛抒情詩が集められたものですから、その中心は人間の感情です。ここも例外ではありません。それは『わたしは恋しい人のもの、あの人は私を求めている。』という情感溢れる言葉からわかります。」と、木村牧師は書きだされる。 

おとめは、若者から「あなたは何と美しく楽しいおとめか。(7節)」と言われ、「私は恋しい人のもの、あの人は私を求めている(11節)」と応える。彼女は彼にとって自分は関心の的であると少し上から目線で告白する。彼が必ず自分を守ってくれる、その確信の中で彼女は平安でいる事が出来た。

そして彼女は、野に出てコフェル(彼女の実家のある村)で、夜を過ごしましょう。華やかな町ではなく、自分にとって人生の原点でもある実家に戻り、そこで愛を楽しみましょうと彼を誘いかける。そこで、早朝、野に出て一緒にぶどう畑やざくろの花を見ましょうと、誘った。そこでは、薬草として使われ受胎効果があると言われる茄子が実り香っていると。

8章1~3節についてO牧師は「中東では、今もそうかもしれませんが、男女が公に人々の前で口づけを交わす事は出来ません。それが許されるのは家族の間に限られています。また外では異性と一緒にいる事が出来るのは、唯一血の繋がった兄弟だけだったのです。ですから、彼女はここであなたが兄弟であったら、口づけしても誰も咎めたりしないだろうと言うのです」と話された。

彼女は若者に例えられる神ともっと親密になりたいと願っていた。教会にいる時は大声で賛美し祈るものの、ノンクリスチャンばかりの家庭や職場では祈ることをためらっていませんかと、O牧師は尋ねられた。自分の周りは、天地の造り主である神の事、その独り子主イエスの事を知識としてはともかく、何もわかっていない人ばかり。そんな中でも彼女なら主イエスの事を伝え続ける事だろう。

彼女は、母の家で、ぶどう酒とざくろの飲み物を差し上げますと若者を誘う。神である彼が彼女を誘うのではなく。「確かに、私たちは救いに導かれ、一方的な恵みを神から頂いています。けれど、同時に主は言われています。『あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいた事を全て守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。(マタイ書28章)』と、O牧師は説かれる。

私の行く所に、いつも主イエスがおられるのである。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「『六十年前は貴男が好きでした』我にいう人直売所の中  別府紘」


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雅歌 5章2節~6章3節 [雅歌]

<恋しい人は透き間から手を差し伸べ、わたしの胸は高鳴りました。(4節)>

「ここでもおとめの夢の中の事が描かれ、それは『恋しい人』との関係における喜びと不安という内面を映し出しています。彼女は夜中家を訪ねて来た彼に胸を高鳴らせつつ、戸を開く事が出来ませんでした。ここに出てくる『手』『透き間』『開く』という動詞は夫々人間の性を表しています。」と、木村牧師は書きだされる。 

「眠っていても、心は目覚めていた」おとめの耳に若者の声が届き、戸が叩かれた。「私の妹、恋人よ、開けておくれ。私の鳩、清らかなおとめよ。私の頭は露に、頭は夜の霧に濡れてしまった。」と彼は歌う。主が戸の外に立って叩いておられる。主に応答し立ち上がり、戸を開けねばならない。けれど、足を洗って着替えてしまった姿でと、おとめは躊躇い恐れる。

戸口から手を差し入れて促される主に応えて、彼女は戸を開くために起き上がる。「ミラルを滴らせ」という「ミラル」は葬りを表し、自分の思いを葬り主に応える姿だと、K牧師は説かれた。しかし、戸を開いたが、恋人は去ってしまい「呼び求めても、答えてくれません。」 祈っても、祈っても願いは叶わず、主が自分を見放されたのではないかと、途方に暮れる時がある。

途方に暮れる彼女を見つけた「夜警」とは、目を覚ましている信仰者。すなわち教会の兄弟姉妹という事になる。まだはっきりと目覚めていない彼女の目を覚まさせるのは、愛のある激しい叱責かもしれない。抽象的な事だが、「打たれて傷を負い、衣を剥がされて」初めて神の愛に気付く。

「エルサレムのおとめたちよ、誓って下さい。もし私の恋しい人を見かけたら、私が恋の病にかかっている事を、その人に伝えると。」 教会員のAさんは、忙しいからと5.6年前から礼拝に来ておられない。しかし先日、子どもの病気回復のために祈って下さいと牧師に電話があり、それに応えて皆で祈った。Aさんはまだ礼拝には来られないが、教会の兄弟姉妹に神に伝えて下さいと言われる。

礼拝を守る事が出来ず、教会とは疎遠になっていた状態にあっても、Aさんは神こそが子どもの病気を治してくれると信じている。彼女の姿に、礼拝が何より大事、礼拝優先によって信仰が深まると半ば思っていた自分の信仰の危うさが浮かび上がる。

自分は半分眠ったような状態で「神が見えない」と叫んでいるのだろう。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「繰り返しお詫びの言葉流されてホームに人が貯められていく 谷活恵」


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コロサイの信徒への手紙  3章1~4節 [コロサイの信徒への手紙]

<さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。(1節)>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第6日<「使徒信条 6,天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり」 ―キリストのご支配のもとに生きる>と題された、日本基督教団仙台北三番丁教会 佐藤司郎牧師の記事を読んだ。

「使徒信条のこの箇所で、私たちが第一に注意しておきたいのは、完了形で言い表されている『天に昇り』までと異なり、『全能の父なる神の右に座したまへり』が現在形で言い表されている事です。この『現在』は、信条が成立した二世紀の時点での現在というだけでない。それは、いつの時代も、これを告白する者にとって、その都度現在なのです。」と、佐藤牧師は書きだされる。

そして「『われ信ず』と告白する時、かつていましたイエス・キリストは、今神の右に座しておられると、私たちは告白しているのです。我らの主はいま神と共におられる、というのが、私たちの信仰の明確な認識でなければなりません。」と、続けられた。

転居したので自宅に近い今の教会に転会した。すると、教派が違うので「使徒信条、信仰告白」の文言が数箇所違い、礼拝で唱和するのに混乱してしまう。それで、日課の散歩のとき「新信仰告白」を繰り返し暗唱している。それで気づいたのだが「我は天地の・・・」というのを「私は天地の造り主・・・を信じます」と、口語で言うと迫力があり「私は信じているのか」と、自問させられている。

「神の右に座し」について佐藤牧師は「右の座とは、私たちのイメージする居場所ではなくて、そこにつく者の立場と権能を意味します。主イエスは、主なる神によって王としての権威と全権を行使するように招かれたという事です。」と記されている。礼拝で唱和しながら頭の中で2つの椅子を浮かべて、じゃぁ、三位一体はどうなるのと考えていた。信仰は頭で考えてはならないのに。

「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです。(ローマ書8章)」 パウロによれば、この世のどんな力も、私たちを神から引き離す事のないように、主イエスは神の右に座して神に執り成し続けて下さっている。愚かな貧しい者のために。

「歴史の主は人間ではなくて、主イエス・キリストの神です。人間の行動が神の義を実現したり、それにとって代わることは出来ません。歴史の真の主は、暴力によってではなく、和解の言葉によって歴史を導きます。今日キリストの支配の下に生きるとは、私たちが、この和解の言葉に従って生きる事です。」と佐藤牧師は結ばれる。けど、今日も多くの戦死者が報じられた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「部屋干しのシャツがかすかに揺れてゐるやうな時代の出逢ひがほしい 吉田達郎」


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