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エズラ記  10章  [エズラ記]

<祭司エズラは立ち上がり、彼らに言った。「あなた達は神に背いた。異民族の嫁を迎え入れて、イスラエルに新たな罪科を加えた。今、先祖の神なる主の前で罪を告白し、主のみ旨を行い、この地の民からも、異民族の嫁からも離れなさい。」会衆はこぞって大声で答えた。(10~12節)>

「エズラは神殿の前で祈り、涙ながらに罪を告白し、身を伏せていた。(1節)」その姿に、イスラエルの人々が彼のもとに集まり、非常に大きな会衆ができた。彼らも激しく泣いていた。その会衆の中から、シェカンヤが、神に立ち返るための方法を提案した。

「私たちは神に背き、異民族の嫁を迎え入れましたが、今でもイスラエルには希望があります。今、私の主の勧めと、神のご命令を畏れ敬う方々の勧めに従って私たちは神と契約を結びます。嫁と彼女が産んだ子を全て離縁します。律法に従って行われますように」と言うと、「お立ち下さい。あなたは為すべきことがあります。協力いたしますから、断固として行動して下さい。」とエズラを促した。

エズラはシェカンヤの提案をイスラエル全体の誓いにした。翌朝、全ての捕囚の子らがエルサレムに集まるようにと布告が出された。出頭しない者は、その全財産が没収され、捕囚の民の会衆から追放される事になる。厳しい勧告であったが、ここで罪をあいまいにしていたら、イスラエルは罪の中で滅びるだけだという真剣な思いがあった。また、ペルシャ王からの神殿再建命令には法的強制力があった。

全ての民は集まった。彼らは罪の自覚と、これから下される裁きへの恐れで寒さの中ずぶ濡れになって震えていた。その人々を前にしてエズラは彼らの罪を告発し、彼らに命じた。まず犯した罪を告白する事であった。次に、自分の行いが正しいかどうかを、自分で判断するのではなく、神に喜ばれる事なのか、悲しませる事なのかを神に問う事を求めた。

「この地の民からも、異民族の嫁からも離れなさい。」 エズラの言葉に会衆はこぞって大声で答えた。「必ずお言葉通りにいたします。(12節)」 その実態調査は一日や二日では終える事が出来ないので、組織的に家族を調べる事が提案される。一部の反対者があったが予定通りに行われた。

22節までは祭司たちの名が続き、レビ人、詠唱者、門衛たちも異民族の嫁を娶っていた。そして25~43節まで一般のイスラエル人の名があがる。エズラは罪を犯した者の実名を克明に残した。この書を読む人達に彼らの罪が露わにされる事こそ大切だと書き記した。

エズラたちの悔い改めによって神の裁きは下りることなくエルサレム神殿は完成することになる。紙やインクがない時代、どのような方法で書き記されるのだろうか。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「神に問うなぜ戦争が虐待があるのか 神は問うためにあり 水岩瞳」


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マタイによる福音書  18章21~35節 [マタイによる福音書]

<その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分の百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め「借金を返せ」と言った。(27.28節)」>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第11回目<「使徒信条 11 「罪の赦し」 ―今ここにおける新しい命への招きーと題された、元キリスト者学生会主事。現在、米国トリニティ神学校修士課程在籍 岡谷和作氏の記事を読んだ。

「私たちが使徒信条で『罪の赦しを信ず』と告白する時、何を信じているのでしょうか。マタイ書18章では到底返済する事のできない借金を背負った家来が、王の温情によって借金が帳消しとなります。罪の帳消しが「罪の赦し」の一つのイメージです。ヘブライ書8章12節『私は彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』とあるように、十字架上で私たちの罪の代価が支払われた事により、神は私たちの罪の記録を削除して下さるのです。」と岡谷氏は記される。

神は罪を帳消しにされ、私たちをキリストの「義」で覆って、招いて下さる。それが私たちの信じる「罪の赦し」だと岡谷氏は記される。そして和解は一方通行では成立せず、神の側から、イエス・キリストの贖いの御業を通して手を差し伸べて下さったのだと。キリストにおいてもたらされた「罪の赦し」を信じます、受け取りますと私たちが告白する時、主の招きに応答しているのですと。

「私たちは赦された者として、罪を赦すようにと召されています。礼拝で祈る主の祈りには『我らに罪を犯す者を、我らが許すごとく、我らの罪をも赦したまえ』の一節があります。これは私たちがゆるしたのだから神様も私をゆるして下さいという交換条件ではなく、無条件で赦して頂いた者として、私も罪を犯す者をゆるしますという宣言の祈りです。」と、を示された。

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦しあいなさい。主があなた方を赦して下さったように、あなた方も同じようにしなさい。(コロサイ書3章)」

1994年、ルワンダで内戦が勃発した。その最中セレスティン牧師は家族を殺害された。牧師は怒りに心が支配され、加害者を赦す事に激しい葛藤を覚えた。しかし、赦された者として加害者を赦す歩みの中で自らが解放され、キリストによる新しい命を体験して行かれた。

失言しては、落ち込む自分だが、それが「罪」だとまでは自覚せず、神から「罪の赦し」をという思いまでには至っていない。「先ず罪を自覚して悔い改めして下さい」とK牧師がきっぱり言われた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「はっきりといひきる語尾の強さもつあなたは傷を恐れない人 小田桐夕」


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エズラ記  9章  [エズラ記]

<わたしはこの事を聞いて、衣とマントを裂き、髪の毛とひげをむしり、ぼうぜんと座り込んだ。(3節)>

エズラの一行は無事にエルサレムに到着して、主への焼き尽くす献げ物をささげ、ペルシャ王の命令書をその地方の首長や総督たち全員に渡し終えた。「このような事があって後(1節)」、イスラエルの長たちがエズラのもとに来て、イスラエルに起こっている罪について話した。

それは、イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとせず、この地に住む異教の人々が行う忌まわしい行いに従って、自分のため、息子たちのためだと、この地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族であるイスラエルはこの地の住民と混じり合うようになった。しかも、長たるもの、官職にある者がこの悪事にまず手を染めていた。というものであった。

エズラの一行がエルサレムに帰還してから、5ヶ月、主に赦された事を感謝し、神によってやり直しの生活をこれから建て上げようとした、その矢先に聞く衝撃的な知らせであった。

エズラが到着以前から起こっていた事であった。最初に総督ゼルバベルに従って帰還した人々は、霊的指導者であるエズラがエルサレムに来たことで、彼らの中で行われている、許し難い悪をエズラに話す機会が与えられたのである。異教徒との婚姻関係を持つことで、異教徒の偶像礼拝や忌むべき行いがイスラエルの中に持ち込まれ、それは日常に沁み込んできていた。

彼らの話に、衝撃を受け呆然となったエズラはやっと、屈めていた身を起し、主に向かって手を広げ、祈り始めた。「わが神よ、御前に恥じ入るあまり、私は顔をあげる事が出来ません。私たちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達しています。」と始まる。

先祖たちや自分たちの罪によって、バビロン捕囚となった事を告白し、イスラエルが裁かれ滅び尽くされても当然であったにもかかわらず、今ここに帰還の民としてエルサレムに住むことが許され、神殿再建を促されております。神が裁く事を止められ、やり直しの時を与えて下さったのに、全てを台無しにしてしまった今、何も言うことは出来ません。とエズラは祈り続ける。

神が啓示されたみ言葉に自分たちを照らす。正しい神の前で罪科を持ったままエズラは座っていた。K牧師は「自分にとって都合の悪いみ言葉を退けず、書かれてある通りに自分を見つめる時、私たちはエズラと同じ、正しい神と罪をまとった自分の姿の対比が浮かび上がります。そこに真の悔い改めと、罪への悲しみが生まれます。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「台風の接近予想に急かされて稲刈る田の面祝祭に似る 加藤和子」


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ローマの信徒への手紙  3章9~20節 [ローマの信徒への手紙]

<「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれもう役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。(10~12節)>

「神から自分たちは選ばれた民だというユダヤ人も、その彼らから異邦人と蔑まれている人々も、みんな平等に神の裁きの前に立つのだとパウロは語ります。そして、その流れの中で『ではどうなのか、私たちには優れた点があるのでしょうか』と、問いかけます。」と、K牧師は話し出された。

「優れた点は全くない」とパウロは否定する。3章冒頭で、御言葉を委ねられたという点においてはユダヤ人は優れていると語ったばかりなのに。ユダヤ人の特別の価値を認めているが、全ての人間は罪の下にあり、その事において全ての人間に優れた点はないのだと語る。自分が神に対して正直者なのかと問われれば、自信がないが「罪の下」にいる者だと教会で指摘されるのは面白くない。

「私たちは真面目に生きていますが、落ち込み、反省し、やり直しながらです。聖書がいう『罪』の本質というのは、人間が自分でどうにか出来るというものではないということです。反省して心入れ替えてやり直したらいい、そういう生易しいものではないのです。私たちは罪をコントロール出来ないのです。「罪の下」にいる私たちは、自分で自分の罪をどうにもできないのです。」とK牧師は話された。

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない」 ユダヤ人は御言葉を委ねられていた。この時代、聖書学者はたくさんいて御言葉は研究され、皆その内容も熟知していた。しかし、本当の意味で神を求めている人はいないのだと、詩編14篇を示しパウロは嘆く。

詩編は「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」と続くが、役に立たないとはどういう事だろうか。イエス・キリストの十字架、復活を抜きにした神との関係は「役に立たない、無益なもの」、虚しい存在でしかないと。私たちは言葉によって罪を犯し、その結果、破壊と悲惨があり、平和の道を歩めない。神への畏れがないと詩編は指摘する。

「主を畏れる事は知恵の初め」神を畏れる、神を神として敬う。そこから神と人間の関係が回復し、神の前で豊かに生きる。人間の幸せはそこから始まるという事を教えられながら、神を畏れる事が出来ない。神を畏れる者は、知恵のない、科学技術のレベルの低い者だと考えるようになる。自分が神になり、強いと思い、神などいらず全てがコントロール出来ると考える。

K牧師は「科学の発展を聖書は否定していません。でも神を畏れない者はその技術を正しくコントロール出来ないのです。終わりの見えない戦争を覚えて祈りましょう。」と結ばれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「秋晴れの林にあけびを捜しつつ高枝ばさみ抱えて歩く 石川洋光」
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エズラ記  7~8章  [エズラ記]

<「エズラよ、委ねられた神の知恵によってあなたは治める者と裁く者を任命して、ユーフラテス西方の全ての民、あなたの神の律法を知る全てのものを治めさせ、律法を知らない者にはあなたたちは教えをさずけよ。」(25節)>

ゼルバベルが主導した神殿再建が完成したのはBC515年。そして大祭司アロンを先祖に持つエズラが主導してエルサレムに帰還するのが458年。1~6章はゼルバベルの事であったが、ここからはエズラ自身が体験した事に入る。彼は最初に自分がアロンの末裔であることを系図によって証明する。

エズラを主導とするエルサレム帰還は、神殿増築やいけにえ調達の目的があったが、それ以上に律法を教えるという目的が課せられていた。祭司エズラはモーセの律法に通じる学者でもあった。バビロン捕囚以後のイスラエルで特徴的な事は、この律法を教える学者の存在であった。

神によってユダの地から引き抜かれ全てを失ったイスラエル人が、再び神によって植えられる時、全面的に最初からイスラエル人としての土台作りをしなければならなかった。律法を知らない民に律法を教える事により、その改革を進めようとした。

エズラの一団は約4か月かけてエルサレムに帰還した。旅の初めに断食を呼びかけ「私たちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈った。」 旅の安全については、「私たちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるそのみ手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」と、エズラは王に言っていたので、騎兵を求める事を恥とした。祈りは聞き入れられた。

祭司長の中から12人が選ばれ、王とその顧問、高官たちおよび居合わせた全てのイスラエル人が神殿への礼物としてささげた金銀、祭具が量られ彼らに託された。「あなた達は主にささげられた聖なる人々です。この祭具も聖なる物で、この金銀も、あなたたちの先祖の神、主にささげられる随意の献げ物です。(28節)」と、エズラは言った。

エズラは祈りを呼びかけ、かつ守る人々を選び、また祈っていた。主のみ手が私の上にあるという言葉はこの日常の営みから来ていた。祈り、そして祈りに基づいて行動し、一歩一歩神を意識しながら、歩みを進めた。神殿の祭具は数にも量にも間違いはなく旅を終え記録された。

「捕らわれの地から帰って来た捕囚の子らは、イスラエルの神に焼き尽くす献げ物をささげた。」 2500年も前の旅はどんなに苛酷だったろうか、追剥や、猛獣、雨や風、病気や怪我もあっただろう。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「芸なしの犬老いやすくのろのろとついてくるだけそれだけでいい 黒田泰雄」


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