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ヨハネの黙示録  19章1~10節 [ヨハネの黙示録]

<それから天使はわたしに「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また「これは神の真実の言葉である」とも言った。(9節)>

「婚宴は出席するまではどの様なものかわかりません。小羊の婚宴はどれほどの喜びに満ちているのでしょうか。この婚宴は小羊である復活のイエス様の婚宴です。」と、服部牧師は書きだされる。

大淫婦バビロン(ローマ帝国)の滅亡を見て、天では讃美の声があがる。伝承によると、BC753年ローマが建国。AD395年ローマ帝国は東西に分裂。476年西ローマ帝国滅亡、1453年、コンスタンティノーブルが陥落、ローマ帝国は完全に滅亡する。神の僕たちの流した血に対する報復が成される。ヨハネは天上で先取りされる神の裁きを「血の復讐」と呼ぶ。

バビロン(ローマ帝国)滅亡は権力を持つ者には終わりの時、しかし迫害された者にとっては解放の時である。8月15日を日本では「終戦記念日」と呼び悔い改めの時とされているが、韓国では「光復節」と呼び、日本に占領された「強占期」からの解放を喜ぶ日である。天上では、ローマを焼く煙が漂う中で礼拝が行われる。

ローマは「淫らな行いで地上を堕落させた大淫婦」と呼ばれる、ここでいう「淫らな」とは、自分より権力のある者、利益を与えてくれる者を拝み、皇帝にすがり、皇帝を主と呼ぶ偶像礼拝を指す。ローマ帝国が滅び、天上では小羊に婚礼の祝宴が開かれ、キリストが王になられた喜びの讃美が続く。

黙示録が書かれたのはAD95年頃、ヨハネにとって目に見える現実は、キリスト者が殺され、沈黙させられていた。それはキリスト教がローマ帝国の国教となるまで続く。その中でヨハネは見えないキリストの支配を見ていた。

小羊の婚礼の日は、キリストと神の民(花嫁)が結ばれる祝いの日である。また、神がサタンを完全に打ち負かす事を示唆する。イスラエルの預言者たちは婚姻を神とイスラエルの民との密接な関係を表現して使っている。新約聖書では、キリストは教会の夫だとエフェソ書5章に記される。

ヨハネは「神の言葉」を通してローマと戦う。彼が迫害の中にある教会に送ったのは武器でなく、神の啓示を記した書簡であった。その幻を通して「ローマと戦え、体は殺しても、魂を殺す事のできない者どもを恐れるな。魂も体も滅ぼすことのできるお方を恐れよ(マタイ書10章)」と諸教会に呼び掛ける。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「桜より田んぼが見たいという君を助手席に乗せ郊外へ向く 白澤真史」


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ヘブライ人への手紙  9章19~28節 [ヘブライ人への手紙]

<なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今や私たちのために神の御前に現れて下さったからです。(24節)>

「イエス様は大祭司として天の聖所に入って下さいました。しかもイエス様は罪の贖いのいけにえとしてご自身をささげて下さいました。だからこそ私たちは、自分の能力や技量によらず、大祭司であるイエス様にすべてをお任せする事ができます。」と、服部牧師は書きだされる。

今日は「召天日」復活節から40日。 主イエスは苦難を受けられた後、ご自分が生きておられる事を、使徒たちに示され、神の国について話された。そして、父の約束されたものを待つように話されると、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。(使徒言行録1章)」 彼らが天を見つめていると2人の天使が「・・・天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる。(同)」と言った。

「キリストは新しい契約の仲介者なのです(15節)」その契約が成立するためには、死が必要であることを「遺言」という側面から説いてゆく。ここでパウロは「契約」「遺言」をギリシャ語で同じ言葉を使っている。主イエスが死なれた事で、新しい契約が有効となったのですとK牧師は話された。「旧約聖書」から「新約聖書」、すなわち主イエスは新しい約束の仲介者なのですと。

モーセが神から契約の言葉を受け取った時、それをイスラエルの人々に話す時、血をとってそれを契約の書、民全体に「これが契約の血である」と言って注ぎかけた。祭壇や契約の箱の上に贖いの蓋に、血は振りかけられた。清めを行うには、水の洗いではなく、血によるものであった。

山羊や羊の血を携えて大祭司は幕屋に入るが、それさえも、彼さえも本当に神に近づく事は出来ていなかったのである。神が私たちをご自分の所に受け入れるには、それ相当のいけにえでなければならなかった。

そのようななか、キリストはご自分の血を携えて行かれたのである。天が清められ、私たちもキリストにあって神に近づく事が出来るようになった。大祭司は毎年、動物の血を携えて聖所に入ったが、主イエスはただ一度だけ。そして、今も神の御前に、私たちのために執り成し続けて下さっている。

K牧師は「これが、神さまのファイナル・アンサーです。神さまは永遠のご計画を持っておられ、完全な贖いを成し遂げるために、イエス・キリストを死に渡すようにされていたのです。これですべてが完了し、これ以上繰り返す事も、付け足す事もない贖いを用意されていたのです。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「木の下にねむってみたいあのひとの頭部をひざにごろんとのせて 田村穂隆」


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ヨハネの黙示録  14章14~20節 [ヨハネの黙示録]

<すると、別の天使が神殿から出てきて、雲の上に座っている方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」(15節)>

「罪から逃れたいと欲しながら、気づけば罪を犯し、罪にまみれているのが私たちの実際です。ヨハネが見た幻の中では、金の冠をかぶったキリストが鎌を手に持っていました。」と、服部牧師は書きだされる。

「白い雲の上に座っている方」を見るようにとヨハネは促される。雲は神の栄光をあらわし、その上に座しておられるキリストが確かに、神に全権を任されたお方であることを示す。「白雲」と「白」が強調されるのは、清さを示し、後に出て来る「大淫婦バビロン」は、世の姿であり、その汚れた姿として現される。そこに、天におられるキリストの清い姿とが対比される。

また、このお方は「金の冠」を被っておられる。それは王冠ではなく、勝利と救いをもたらした者に与えられる冠である。ローマ皇帝も王冠ではなく、勝利によって人々に救いをもたらした者として、月桂樹の冠をしばしば冠っていた。そしてこのお方は「鋭い鎌」を持っておられた。収穫のための鎌であるが、「鋭い」というのは、その裁きが容赦なく行われる事を示している。

聖書で「刈り取る」という言葉を聞くと、魂の救いの収穫の事を思うが、聖書はただそれだけではなく、悪い実を結ぶ者たちの時にも用いられる。「畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりもそうなるのだ。(マタイ書13章)」

また、別の天使も手に鋭い鎌を持って神殿から出て来た。すると、祭壇のところから火を司る権威を持つ別の天使が出てきて、鎌を持つ天使に、その鎌をもって、地上のぶどうの房を取り入れよ、ぶどうは既に熟しているといった。ぶどうは熟しすぎていた。主はそれほどまで忍耐して、人々の悔い改めを待っておられたのである。

ぶどうは収穫され、大きな搾り桶に投げ入れられ、都の外で踏み潰される。「すると、血が搾り桶から流れ出て、馬の轡に届くほどになり、1600スタディオンにわたって広がった。(20節)」 主が戦われて、彼らが殺されその血が流れる。それは馬の轡に届くほど、1600スタディオン(296k)に広がると。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「揺れもせず静静上がる観覧車夫と吾とは次第に無口 塩畑光枝」

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ヨハネの黙示録  14章1~13節 [ヨハネの黙示録]

<また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。』と。」“霊”も言う。「然り、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」(13節)>

「全ての人は死にます。死を経験しないで済む人は一人もいません。誰もが一度は経験しなければならない死をどのように受け止めるかを考える時、ヨハネに向かって天からの声が告げました。私たち人間にとって、死を幸いと呼ぶことははばかれます。しかし、死を幸いと呼べるようになると宣言されます。」と、服部牧師は書きだされる。

シオンの山(エルサレム神殿があった場所)に立つ小羊と、その子羊と共にいる14万4千人(偶像礼拝をしたことがない者)たちが新しい歌を歌う。と14章始まり、天のエルサレムの先取りが記される。そして6節に入ると、国民、種族、言葉の違う民、民族に永遠の福音を告げ知らせるための天使が来て、「地上に住む人々」に呼びかける。彼らは、イエス・キリストを信じない人たちである。

天使は大声で言った。「神を畏れ、その栄光を称えなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。(7節)」

神の裁きを告げた天使に続いて、第二の天使がその神の裁きによって「大バビロンが倒れた」と告げる。「大バビロン」とは、皇帝とその偶像を礼拝することを諸国の民に命じたローマ帝国(獣)である。そして、第三の天使は、その獣の像を拝み、その刻印を受けた者への裁きを告げる。それは、獣の支配下にある事を表し、その者たちも獣と同じ裁きを受ける事が予告される。

獣を拝み、獣の刻印を受けた人たちは、殺されないために、経済的な不利益を避けるために、命令に従ったのかもしれない。しかし、彼らにも獣と同じ裁きを神は下されるのである。「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である(12節)」 彼らに対する厳しい裁きについて記されるのは、主を信じる者が忍耐するためですとK牧師は話された。

神の掟を守り、主への信仰を守り続ける者、彼らはそれによって困難を強いられ、殺されてしまうかもわからない。しかし聞こえて来た天の声は「今から後、主に結ばれて幸いである。」と告げて、それを書き記すようにとヨハネに命じる。つまり、彼らは1節に戻り、天において真の礼拝に加わることができると宣言される。

イスラエルを支援する政府に抗議するアメリカの学生たちの映像に、有名大学のタレントが、「せっかく入学したのに追放されていいのかしら」とコメントした。あきれた、彼女は何も分かっていない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「たわいない話し相手の友のゐて気負うことなく涙を見せぬ 福田正人」


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ヨハネの黙示録  12章1~6節 [ヨハネの黙示録]

<女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治める事になっていた。子は、神のもとへ、その玉座を引き上げられた。(5節)>

「私たちは必ず何かの支配下にいます。何かのとりこになっている、といってよいかもしれません。例えば、権力のとりこになる人もいれば、お金に支配されている人、欲望のとりこになっている人もいます。そこには、本物の平安はありませんが、私たちはその支配を受けてしまい、不安に支配される事になります。」と、服部牧師は書きだされる。

「天に大きな徴(しるし)が現れた。」と1節は書き出され、3節には「また、もう一つのしるしが天に現れた。」と続く。ヨハネが見た幻を12章で初めて「しるし」と言っているのは、「しるし」という時にはこの幻は、預言的な意味を持っているとヨハネは判断した。それが「天に現れた」とはどういうことか。

ここで「天」というのは神の御座ではなく、「空」であり、そこに身ごもっている一人の女を見た。もう一つは「大きな赤い竜」。女性は男の子を産んだが、それではマリアと主イエスと考えていいのだろうか。仰々しい登場から清楚なマリアをイメージできないが、その事についてヨハネは語っていない。

S牧師は「ヨハネはここで主イエスの時代に何があったのかを問題にしていません。彼の最大の関心は『霊的真理』だけに向けられているのです。」話された。牧師の話さえ難しい。彼女は男の子を産んですぐ荒野に逃げるが、その記述は福音書のどこにもない。また、産まれた子供を食い尽くそうとする竜は、ヘロデだとする説は適当ではないが、男の子は主イエスだと思うとS牧師は話された。

この黙示録を記したヨハネは、主イエスが十字架に架かった時に、主の母であるマリアを託された人とされている。ここに登場する女は、太陽をまとい月を足の下にして、十二の星の冠を被り、神の子イエスを産み出した。すなわち、イスラエル民族の祖、神の民ユダヤ人を産んだという事になる。主イエスの先祖を産んだのである。「女」という言葉は抽象的な表現だとS牧師は話される。

イスラエルの民は旧約聖書に記される預言に基づいて、早くからメシアの来臨を信じ待ち望んでいた。しかし、それが実現するには多くの苦難があった。例えば、アッシリア、バビロンに蹂躙され、北イスラエルは国が壊滅し、南のユダは民族ごと捉われ捕囚の屈辱を受けた。

「女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこにはこの女が1260日の間養われるように、神の用意された場所があった。(6節)」 1260日は永遠、主を信じる者を神が永久に養って下さるとヨハネは記す。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「子蜥蜴も春の花 あたたかな石に根っこのような指をひろげて 音平まど」


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ヨハネの黙示録  11章14~19節 [ヨハネの黙示録]

<「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」(15節)>

「この世は誰のものであるか。この問いの前で、私たちは世の諸霊と相対し、自らの無力に絶望したくなることがあります。この世は神が造り、神が支配して下さるはずなのに、との思いをぬぐい切れずにいます。」と、信徒の友「日毎の糧」5月号講解担当、服部修牧師は書きだされる。

第七の天使がラッパを吹くと、天に様々な大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」。神がご自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられた。それは、これから起こる事の先取りである。

地上では、この後にも様々な艱難が待ち受けているのだが、天上では無数の天使たちが賛美の声をあげていた。主なる方は、イスラエルの王であるだけでなく、全ての国の王であると。それを聞く預言者たちは、イスラエルに対する裁きの言葉だけでなく。アッシリアやバビロン、モアブ、エジプトに対する裁きの言葉を記している。

「国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ。海とそこに満ちるものよ、とどろけ。・・・主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる。(詩編96章)」

天使たちの讃美に続いて24人の長老はひれ伏して神を礼拝し「今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです」と言った。彼らは、高いくらいの天使だったと思われる。「統治された」と天上においてすでに起こった事として神に感謝を献げる。

彼らは続いて神の裁きについて語る。「異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現わされた。死者の裁かれる時が来ました。・・・地を滅ぼす者どもを、滅ぼされる時が来ました(18節)」 ここでの「異邦人」とは、主イエスを信じない者たち。神が地を滅ぼす者たちを滅ぼされる時が来たのである。

厳しい迫害に故郷を追われ、家族も亡くし、それでも主を信じる人々は神に祈り続け預言者の言葉によって光を見つづけていた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ふはふはと言われるままに試着して春のスカート買ひてしまえり 岡田ゆり」


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ヨハネの黙示録  11章1~13節 [ヨハネの黙示録]

<彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。(8節)>

「『四十二か月の間』、つまり3年半にわたり、エルサレムの都が異邦人によって踏みにじられるのをヨハネは見ました。そのただ中にイエス様を証し続ける2人もついにイエス様と同じように殺されてしまいます。でも、イエス様が蘇られたように、彼らもまた命の息を吹き込まれて立ち上がるのです。」と、清藤牧師は書きだされる。

1世紀末ローマ帝国領の全ての者は、神であることを公言していたローマ皇帝に祈りや犠牲を献げるように命じられた。それを拒否した者はローマ帝国に対する反逆者とみなされ死に追いやられる事もあった。キリスト者たちは教会が滅ぼされる、神が世界を統治するという希望に対して何が起こるのだろうかという不安の中にあった。黙示録の著者ヨハネは、その人々に答える神の言葉を受け取った。

ヨハネは「神殿と祭壇とを測り、またそこで礼拝している者たちを数えよ(1節)」と命じられる。ダニエル書9章によると、彼が捕囚の地バビロンで祈りを献げていた時、「あなたの民とあなたの聖なる都については70週が定められている」という御告げを受けた。1週が7年なので490年。主イエスはエルサレム神殿再建から後に来られ、十字架刑を受けられた。その70年後、神殿は崩壊された。

エルサレムの町は破壊されて、主を信じる人々は世界中に離散し、異邦人によって踏み荒らされる町となった。主イエスは「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。(ルカ書21章)」と預言されている。

ダニエル書7~9章の預言通り艱難は続いた。「誰にも、どのようにも、騙されないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、・・・彼は全て神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座をもうけ、自分こそ神であると宣言します。(テサロニケⅡ3章)」と、パウロは預言した。

ゼカリヤ書の2本のオリーブの木、2つの燭台が証人として登場する。捕囚を解かれた人々が神殿再建を行うが、異邦人の阻害にあい難航していた。しかし、預言者ハガイとゼカリヤはイエス・キリストが再臨された後のエルサレムの事を預言して人々を鼓舞した。

正直言って、頭にイメージする事も出来ず、注解書も理解できない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「白い部屋白いテーブルの向こうからカウンセラーはのっぺり笑う 両角美貴子」


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ヨハネの黙示録  6章1~17節 [ヨハネの黙示録]

<小羊が第五の封印を開いた時、神の言葉と自分たちの証のために殺された人々の魂を、私は祭壇の下に見た。(9節)>

「ヨハネは子羊なるイエス様によって巻物の封印が開かれるのを見ました。封印が一つまた一つと開かれるごとに、平和を奪う殺し合いや飢饉が広がり、また疫病が蔓延したり、地震が起こったりしたのです。その時にはどんな高い地位にある者も逃れる事はできず、耐えうる者はありませんでした。」と、清藤牧師は書きだされる。

小羊、すなわち主イエスが七つの封印を一つずつ解いて行かれる。最初の封印を解かれた時、四つの生き物のうちの一つが、雷のような声を出して「出て来い」と叫んだ。出て来たのは「白い馬」。騎乗する者は弓を持ち、冠が与えられ、勝利を得ようと出て行った。

第二の封印は「赤い馬」。騎乗する者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。そして大きな剣も与えられた。第三は「黒い馬」。騎乗する者は、手に秤をもっていた。第四は「青白い馬」。騎乗する者の名は「死」、これに「陰府」が従っていた。彼らには地上の1/4を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた。

ファンタジーとして楽しく読み進みなさいと勧められたものの、孫のゲームに登場するような場面である。最初の「白い馬」は、再臨されたイエス・キリストだろうか。それにしても弓を持たれる事は無い。主は御言葉という鋭い剣で対峙される。また、権威の象徴である冠を主イエスは冠られない。さらに「勝利を得ようと」はされない。主イエスはすでに勝利して、神の右の座についておられる。

主の再臨によって平和が地上を支配するが、4節以降をみると地上は戦争と死である。S牧師は「つまり、この人物は偽キリストです。主に似たような特徴を持ちながら、実は反対の事を行う人物、テサロニケⅡ2章に記される『不法の人』です。彼は全て神と呼ばれる者、また礼拝される者に反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮に座をもうけ、自分こそ神であると宣言します。」と、話された。

第二の「火のように赤い馬」とは、戦火、または血の色なのか。反キリストが強大な軍事力を持つことが表される。次の「黒い馬」、小麦の値が記されるが、これは不況、飢饉、飢餓をあらわす。しかし、オリーブ油とぶどう酒は値が上がる事は無く、裕福な人々への影響はなかった。

傲慢な為政者、戦争、不況、飢餓に続いては「青ざめた馬」、1/4が「死」を迎えると。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「曇天に始業のチャイム 病床に聞けば澄むなりどんな音でも 染川ゆり」


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ヨハネの黙示録  5章1~14節 [ヨハネの黙示録]

<すると、長老の一人が私に言った。「泣くな、見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開く事が出来る。(5節)>

「ヨハネは神さまの手に封印で閉じられた巻物があるのを見ました。でもこの巻物を開くにも、見るにも、相応しいものは見つかりませんでした。巻物に記された神さまの御心が分からない。その巻物を開く事が出来るのは、ダビデのひこばえなるイエス様でした。」と、清藤牧師は書きだされる。

囚人として獄中にあったヨハネは、礼拝を一人で献げていたある日曜日「ここに上って来い」という主イエスの言葉を聞いた。5章に入ってもこの礼拝は続けられていた。そこでヨハネは「玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で閉じられていた(1節)」。そして天使が、この巻物の封印を解く者が誰かと大声で叫んでいた。

ヨハネはローマ帝国の激しい迫害の中でも信徒たちに「神を信頼し、信仰を守り抜くように」と絶えずみ言葉を語って来たリーダーの一人であった。しかし、迫害は治まることなく彼は囚人となり、信徒たちの中には殉教した者もでた。これから教会は、兄弟姉妹はどうなるのか、彼らに問われてもヨハネ自身も分からなくなっていた。彼は巻物の中身を知りたいと痛感したが、誰も開く事は出来なかった。

この巻物を開くにも、見るにも、相応しい者は見つからずヨハネは激しく泣いた。「すると、長老の一人が私に言った。『泣くな、見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開く事が出来る。』」と。

「ユダ族から出た獅子」とは、創世記49章で、ヤコブの息子の一人であるユダの家系から勝利をもたらす王が輩出すると預言されている。「ダビデのひこばえ」とは、ダビデの家系は一度絶えてしまったように見えるが、その家系から新たにある人物が現れるという。旧約が預言したユダ族に属するダビデの家系に「約束の救い主(メシア)」が現れて、この封印を開く事が出来ると長老の一人が告げた。

「私はまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。(6節)」 ヨハネが見たそれは、神殿にいけにえとして献げられ死んでしまった小羊ではなく、一度は確かに死なれたが、そこから復活された主イエス・キリストを指し示していた。

「七つの角(力)」「七つの目(全地に遣わされる神の霊)」、聖書で「七」は完全数とされる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「わけありの林檎も剥いてみせましょうひとしく春の裸身となりぬ 春野あおい」


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ヨハネの黙示録  4章1~11節 [ヨハネの黙示録]

<「主よ、私たちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れとを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。(11節)>

「『ここへ上って来い。この後必ず起こる事をあなたに示そう。』ヨハネはそういって天上の礼拝を見ています。24人の長老たちが『玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し』、被っていた金の冠を玉座の前に投げ出しました。」と、清藤牧師は書きだされる。

O牧師は「黙示録は文学的類型から言えば『ファンタジー』であると思います。ファンタジーはギリシャ語で『見えるようになる』という意味を持ちます。象徴的な事物を多用して、終末のヴィジョンを語るという幻想的な様式を持っています。黙示録の記された背景には、キリスト者への迫害、虐殺という苦難がありました。人々は、その現実に埋没し、逃れ口や抜け道、対処の方法を見失っていました。そこで、信号のようなものが必要なのです。混雑した交通状態が、色の点滅によってその流れが制御されていくのです。」と話された。

奇妙で読み進めるのが出来なくなる、こんなことが本当に起こるのだろうかと思ってしまう。O牧師は「こういう風変わりな文学表現を読み、自分の心に描いてみて、面白いと楽しむのです。現実を見る目と、それとは違うもう一つの世界を見る目を持ち、楽しめるなら、困難にただ飲み込まれずに済むのです。黙示録の作者はそれを目論んでいるのです。」と、楽しそうに話された。

「四つの生き物」が登場する。エゼキエル書1章。それは彼が見た神の幻である。エゼキエルは、バビロン捕囚期の預言者で、捕囚となりバビロンに連行された人々に語り、彼らを慰め、精神的に支えた人であった。彼は祖国の崩壊、滅亡を目にし、捕囚を体験し、突然に妻を失うというなか、預言者として神に仕えた。耐えがたい苦難の中の彼を支え続けたのは、神からのイマジネーションであった。

エゼキエル書では、一つとされた四つの生き物を、ヨハネは分解して一つの独立した存在として描き出す。第一の生き物は「獅子」、第二は「雄牛」、第三は「人間」、第四は「鷲」の4つの生き物が、キリストの玉座を取り囲んで、賛美すると記される。

「四つ」というのは四福音書。福音書こそ真のイスラエルの源であるイエス・キリストを証言し賛美するものである。無数の眼を持ち、四福音書に語られる主イエスをしっかり見るように、厳しい現実に捉われていないで、この世に生き、現実に向き合われた主を見るようにと黙示録は励ます。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「特大の広島カキは輝けり選りすぐられて上京したり 栗栖優子」


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