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エフェソの信徒への手紙  5章1~14節 [エフェソの信徒への手紙]

<だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(7.8節)>

「パウロは自分で神様の栄光を輝かせようと努力した人でした。主の教会を迫害するほどまでに熱心でした。でもイエス様と出会って知りました。私が神様の栄光を輝かせるのではない。イエス様が神様の栄光で私を照らして下さると。」と、清藤牧師は書きだされる。

この世でキリスト者として生きるには、キリスト者としての召命をいつも確認しなければならない。「あなた方は神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(1節)」 神に倣うとは、罪人のために独り子イエスを献げて下さったようにという事である。自分を献げる、すなわち自分を捨てる。その時、他者に対する貪欲な言葉や、卑猥な言葉が出るはずはないのだとパウロは語る。

そして、「空しい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いの、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。(6節)」 また「光の子として歩みなさい。」と勧める。それは、右に行くのか左に行くのか迷った時、「キリストならどうされるか」を、生活の指針にすることである。

「全てのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされる者は皆、光となるのです(13.14節)」とパウロは語り、イザヤ書を紹介する。この言葉は初代教会の讃美歌、あるいは洗礼式で用いられたとされている。

「栄光と救いの到来」とタイトルが゙つけられる。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出て、主の栄光があなたの上に現われる。(1.2節)」 ウクライナやガザの戦禍、揺るぎ止まない地震、不実な為政者たち、明るい話題はどこにもない今、それでも光が現れるとパウロは説く。

今日の祈祷会、教会の桜が満開になりみんなウキウキしていたら、M牧師が詩を紹介された。 <ラインホルド・ニーバの祈り> 「神が置いて下さった所で咲きなさい。仕方ないとあきらめてではなく、咲くのです。咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。咲くということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだということを示して生きる事なのです。神がここに置いて下さった。それは素晴らしい事であり、ありがたい事だと、あなたのすべてが、語っている事なのです。置かれている所で精一杯咲くとそれがいつしか花を美しくするのです。神が置いて下さった所で咲きなさい」。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「同じ日に生まれた孫のおかげなり子らはついでに我を祝いぬ 村崎京」


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エフェソの信徒への手紙  4章17~32節 [エフェソの信徒への手紙]

<キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にある通りに学んだはずです。(21節)>

「パウロはこの世の模範になる立派な人になりなさいと勧めたわけではありません。放縦な生活をすること、ふしだらな行いにふけること、盗みを犯す事、悪口を言うのはやめようなど道徳を教えているのではありません。それよりもイエスに結ばれて、イエスの命の内にあるあなたであることを生きてほしいと願いました。」と、清藤牧師は書きだされる。

トルコには、今もローマ帝国のエフェソ遺跡がある。そこから、海は地殻変動により今はやや遠くなってしまっているが、昔は港町として繁栄した豊かな都市であった事がうかがえる。そのためか、エフェソの教会にはギリシャ・ローマ的な考え方を持つ異邦人が多くいた。彼らの中には自分を神とし、その利益のために教会を利用する者がいた。そのため、エフェソの教会は常に争いが絶えなかった。

主の死と復活によって、私たちの罪が赦され、新しい命が与えられ、もう以前のように放縦に生きる事はできない者とされている。神が私たちを救われたのは私たちを通して神の恵みを伝えるためであり、個人の幸福や救いを越えた出来事として神に召されているとパウロは強く説いてゆく。

K牧師は「キリスト者は罪を赦された罪人で、罪人である現実は変わらないのです。けれども、私たちがキリストを心の中に迎え入れ、キリストの愛に触れる事を通して、私たちは次第に聖化されていきます。キリストを知った者の生き方の基本は隣人と共にある生活です。『だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに体の一部なのです(25節)』」と話された。

ヤコブ書で「誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しない」と警告されている。怒りいら立ちが人を罪に導く。「怒るのに遅い生活を私たちがすれば、他者との不和が生じてもやがて解消するのです。それでも不和があるとすれば、それは私たちがみ言葉を真剣に生きていないからではないでしょうか。」とK牧師は戒められる。

「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神があなた方を赦して下さったように、赦しあいなさい。(32節)」 この世から遠ざかるのではなく、世の中で「地の塩」として生きていくことが求められる。世において「見ざる、聞かざる、言わざる」が知恵とされているが、「不正や悪を見逃さず、それで損をするのであれば、損を受けよ。神は見ておられる。」とパウロは言葉を続けてゆく。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「しろしろと絵本の中のやうな蕪両手にささげられ隣より来る 今井早苗」


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エフェソの信徒への手紙  4章1~16節 [エフェソの信徒への手紙]

<そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。(11節)>

「パウロは教会が誰か一人によって形作られるとは言いませんでした。そこに集う人それぞれに賜物があり、役割があることを述べています。皆さんが教会にあって様々な奉仕を行うようにです。」と、清藤牧師は書きだされる。

「主に結ばれて囚人となっている私はあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きに相応しく歩み(1節)」と4章は始まる。この時パウロはローマ皇帝の法廷で裁かれるため牢獄の身であった。しかし、彼はそれを主イエス・キリストによって縛られているとしていた。そして、エフェソの信徒たちも、神の招き、神に呼び出された者として、神の祝福を感謝して歩むようにと勧める。

繰り返し罪を重ね死ぬしかなかった私たちが、主の復活と共に蘇った。私たちの罪を主が担って下さり新しい命に歩むことが許され、キリストに結ばれる平安が与えられている。K牧師は「神様が与えて下さった恵みに対する応答は、私たち自身がその恵みの深さと愛を他者に対して分かち合う事によって可能となります。神の恵みを受けながら、他者を拒むのは間違いです』と話された。

「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。(2節)」 一致団結して進んで行こうというものではなく、もう神の恵みによって一致団結されている。問題は、私たちの側でその一致を取り壊す事もできるという事です。神の愛ではなく自分愛を優先して壊してしまうのです。とK牧師は説かれる。

「柔和」とは、人を裁かず、神の裁きに任せるという事で、「寛容」は愛をもって忍耐する。それは悪を是認する事ではなく、私たちの内にキリストがおられる事を思って愛をもって忍ぶという事である。頭では分かっていても、なかなか実行出来ない事の一つだ。

K牧師は「霊的な成長」に三つの段階があると話された。一つは「自分」、自分が気になり、いろいろ悩んでしまう。その次には「神」を仰ぐ、神が何を行い、言われているのかと。最後に「他者」、神が自分を通して他者にどのように働かれるのか、絶えず意識する。自分が頂いている神の恵みが、他者へ働きかける恵みへと流れていく。そして、神にあって互いに繋がっている事を知る。

「一つ」と言う言葉が続く。イエスを神の子キリストと信じた者は皆「一つ」の体の中にいる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「少しづつ水の入りゆく田のすみの種漬け花に降るほそき雨 村上春枝」

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ヨハネによる福音書 21章15~19節 [ヨハネによる福音書]

<三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛している事を、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。」(17節)>

「イエス様のお尋ねにそのまま『愛しています』と答えたらいいのに彼の答えは歯切れが悪い。『主よ、あなたは何もかもご存知です。』の中には、イエス様を喜び歩んで来たペトロの姿があります。でもイエス様を愛することにしくじってしまったあの経験も、ペトロの答えには滲んでいます。」と、清藤牧師は書きだされる。

ガリラヤ湖での食事が終わると主イエスは「シモン・ペトロに『この人たち以上に私を愛しているか』と言われた。(15節)」 ここで言われる「愛」は、惜しみなく与えて相手から見返りを期待することなく与える愛である。ペトロはこれまで自分の願いで、自分の意欲で主イエスに従ってきたのだが、失敗を繰り返し、実を結ばず、ついには主を三度否定する事さえしてしまった。

主の問いかけに「はい」と答えたペトロに主は「私の小羊を飼いなさい」と言われた。主イエスは「私はよい羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(10章14節)」と言われていた。主イエスに従う者たちは主の小羊の群れと例えられる。ペトロは今まで漁師であったが、羊飼いになるようにと言われる。

二度、三度「私を愛しているか」と重ねてペトロに問われ、「私の羊の世話をしなさい。」と言われる。初めの「小羊」ではなく大人の羊であり、単に飼うだけでなく、「牧する」事が求められる。つまり、食事を与えるだけでなく、羊を守り、導き、傷を癒し、その他全ての管理が含まれる。ペトロに委任される務めをさらに大きくされる。プロテスタント教会でいう「牧師」の働きである。

重ねて言われる主の言葉を理解できないペトロに主は「私の羊を飼いなさい」と言われると「はっきり言っておく」と前置きしてこれからのペトロの歩みを予告される。彼は今まで自分の意志で主イエスに従ってきたが「しかし、年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、あなたの行きたくないところに連れて行かれる。」と復活の主イエスは話された。

「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『私に従いなさい』と言われた。(19節)」

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ほかほかの鳥坂(トッサカ)まんじゅう思わせて産着の中にみどり児ねむる 冨田織江」



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ヨハネによる福音書 21章1~14節 [ヨハネによる福音書]

<イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と、問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。(12節)>

「夜通し漁に出てきた弟子たちを迎えて下さったイエスさま。炭火をおこしパンと魚を用意して一緒に朝ご飯を食べようと、イエスさまが手ずからパンと魚を分けて下さいました。」と、清藤牧師は書きだされる。

エルサレムで閉じ籠っていた弟子たちと会われた後、復活の主イエスは、ティベリアス(ガリラヤ)湖に姿を現された。そこにはペトロをはじめ7人の弟子がペトロの呼びかけに応じて、舟に乗り込み漁に出ていた。しかし、その夜は何もとれず、彼らは空腹と失望感で疲労困憊していた。夜明け頃、主イエスは岸に立っておられたが、弟子たちは誰一人それが主イエスだとは分からなかった。

主イエスの復活は彼らに喜びと希望をもたらしたのだが、それだけで毎日の糧が得られるわけもなく、漁ならばと網を投げたが、何もとれず徒労に終わってしまった。その様子を主イエスは湖の岸に立って彼らを見ておられた。K牧師は「これはしばしば、私たちが主の臨在を感じるのが、途方に暮れた時であるのと同じです。」と言われた。

岸から舟の上にいる彼らに主イエスは収穫があったのかと聞かれた。それが徒労に終わったと答えると「舟の右側に網を打ちなさい、そうすればとれるはずだ」と言われた。そこで彼らが網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げる事が出来なかった(6節)」 一人の弟子が「主だ」と言ったので、裸同然だったペトロは上着をまとって湖に飛び込んだ。

193匹の大漁であったが網は破れていなかった。弟子たちが陸に上がるとそこには炭火がたかれ、その上に魚が乗せられてあり、パンもあった。「さあ来て、朝の食事をしなさい」と主イエスの声がした。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えて下さる(詩編127)」

「父なる神様に蘇らされたイエス様は私たちにおっしゃいます。『さあ、一緒に食べよう』と。神様の養いの中に私と一緒にあなたも一緒に生きようと。体の事で思い煩い、不安なことを数えてきたかもしれない。心もとなさを覚えたかもしれないけれど、私のもとで一緒に生きよう。そういって、私たちの日々の暮らしにイエス様は共にいてくださるのです。」と、清藤牧師は結ばれる。

「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と、主の祈りを祈っているのに、自分は糧のためにあくせくしている。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「寒雨すぎあかるむ鉢のゼラニューム咲けば咲くほど孤独深まる 菊井直子」


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ヨハネによる福音書 20章24~31節 [ヨハネによる福音書]

<それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)>

「弟子のトマスは孤独でした。ほかの弟子たちが『私は主を見た』というところに一緒にいる事が出来なかったから。弟子たちの喜びの輪に入っていくこともできず、『この目で見て、この手で触ってみなければ決して信じない』と意固地になってしまう始末。」と、清藤牧師は書きだされる。

復活された主が日曜日の夕方、ユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけ、引きこもっていた弟子たちのところに来られ、彼らの真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた。そして手とわき腹をお見せになった。主を見て大喜びする弟子たちの中にトマスはいなかった。

復活の主イエスが来られた時、そこにいなかったトマスに他の弟子たちが次々と「私は主を見た」と話すと、トマスは「その手の釘跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ・・・私は決して信じない」と言った。彼は他の弟子たちが幽霊でも見たのだろうと思っていた。自分の視覚、触覚で確かめなければ信じないと思っていた。その事から「疑い深いトマス」と言われている。

しかし、疑い深いのはトマスだけではないルカ書24章で、弟子たちは「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った(37節)」とある。その彼らに「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起すのか。私の手足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい」と主は言われた。それでも、彼らが喜びながらも信じられないでいると、主は彼らが差し出した焼いた魚を、その目の前で食べられた。

八日後、トマスも含む弟子たちが、鍵をかけた部屋にいると、主が来られて真ん中に立ち「あなた方に平和があるように」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。主はトマスが弟子たちに言った言葉をご存知である。そのままにはなさらない。

「信じる者になりなさい」と言われたトマスは「私の主、私の神よ」とすぐに応えた。主はトマスに「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われた。

その後のトマスは、南インドで伝道するが、チェンマイ郊外で石打にされ槍で突きさされ殉教したと伝えられている。インド南部の西岸に、聖トーマス・キリスト教徒の諸教会が今も存在する。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「色を失い影のごとくに行き来する吹雪のなかの人も車も 石井夢津子」


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ヨハネによる福音書 20章11~23節 [ヨハネによる福音書]

<イエスが「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(16節)>

「マグダラのマリアは泣き続けていました。『私の主』と言えるくらい彼女を支えてきたイエスさまが取り去られてしまったという思いでいっぱいだったからです。」と、信徒の友4月号「日毎の糧」担当、東京松沢教会清藤淳牧師は書きだされる。

昨日はルカ書で、今日はヨハネ書なので多少食い違いがあるが、婦人たちは墓がからであることをペトロたちに報告すると、再び彼らの後について墓に戻った。泣いて墓を覗いているマリアは「婦人よ、なぜ泣いているのか」と天使たちから声をかけられ、「私の主は取り去られました」と言った。そういいながら後ろを振り向くと「イエスの立っておられるのが見えた」。

主イエスは「なぜ泣いているのか、誰を捜しているのか」とマリアに言われたが、彼女はそれが主イエスとは気づかず園丁だと思い「あなた方が運び去ったのなら、どこに置いたのか教えてください。」と言った。そこで「イエスが『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。(16節)」

主イエスが改めて「マリア」と呼びかけられると、初めてマリアは相手が主であることに気付いた。それは「マリア」という固有の名前をもって、特別に呼ばれたからであった。先日説教で聞いた徴税人ザアカイも主は名前を言って呼びかけられたので不思議だったが、主は確かに一人一人の名をもって呼びかけて下さると学んだ。主との出会いは一対一、名をもって呼ばれて個別に出会って下さる。

『ラボニ』と言って縋り付こうとしたマリアに主は、まだ父のもとに昇っていないのだからと、マリアを拒まれた。十字架による罪の贖いの業を終えられ、これから天に昇り、父の栄光を受けられる主イエスは、「ナザレの人」と呼ばれていたかつての主イエスとは違うのですとK牧師は話された。栄光を受けられる主イエスとの出会いは、出会った者にとっては新しい日常へと招かれる事なのだ。

主はマリアに「私の父であり、あなた方の父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方のところへ私は行く」と、私の兄弟たちに告げるようにと言われた。「新しい日常」とは主によって新しい使命を与えられるという事であった。これまでの日々の繰り返しではなく、「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」そう言って、新しく生きる彼らに息を吹きかけられた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「白菜をざくざく笊に盛り上げて満足そうな妻の横顔 千名民時」


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ルカによる福音書 24章1~12節 [ルカによる福音書]

<婦人たちは恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活なさったのだ。まだ、ガリラヤにおられた頃、お話になった事を思い出しなさい。(5.6節)>

「週の初めの明け方早く、婦人たちは準備していた香料をもって、金曜日に埋葬されたヨセフの墓に向かいました。彼女たちは十字架に釘付けにされる主イエスを目の前にして、自分たちの無力さを知りますが、せめて埋葬された主に香料をと思い、墓に急ぎました。」とK牧師はイースターの説教を話し出される。

そして「キリスト教信仰の中心は、ナザレのイエスの十字架と復活にあります。2千年前に殺された死刑囚が、今も生きている神の子、救い主であるという信仰です。神は私たちを神の子として下さり、様々な場面で蘇らせて下さいます。主の十字架を通して、私たちは永遠の命を生きる事が出来ます。」と話された。

婦人たちが墓に着くと、墓を封じた石は脇へ転がされていて、主イエスの遺体は見当たらず、途方に暮れていると、二人の天使が現れた。そして「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活なさったのだ。」と言った。

そして「まだ、ガリラヤにおられた頃、お話になった事を思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する事になっている。と言われたではないか。」と言った。婦人たちはたしかに、主イエスがご自分の死と復活を三度予告された事を思い出した。そして、墓から帰ると11人と他の人皆に一部始終を知らせた。記事から婦人たちの喜びが伝わる。

しかし、使徒たちは「たわ言」だとして婦人たちを信じなかった。そんな中ペトロは墓へ急ぎ、その中に、主の遺体を覆っていた亜麻布しかなかったので、驚いて家に帰った。マルコ書は復活を知らされた婦人たちが「震え上がり、正気を失った」と書き、マタイ書では復活の主イエスに会った弟子たちが「疑った」とあり、ヨハネ書ではペトロは主の復活を「理解していなかった」とある。

K牧師は「婦人たちはなぜ墓に向かったのでしょうか。墓は死者が入る所です。彼女たちは復活を信じていませんでした。身近にいた使徒たちもです。けれど、主の復活は確かな事です。それは、主が生きて私たちに日々出会って下さっている事を私たちは覚えるからです」と、結ばれた。

昨日はイースター礼拝後、愛餐会でカレーを頂き、その後二人の婦人が自分にとっての主との出会いを話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「おそらくは人生初の折り鶴を祖父の入院見舞いに折らん 瀧川和麿」


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ヨハネによる福音書 19章38~42節 [ヨハネによる福音書]

<彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。(40節)>

「十字架に架かられ、死なれた主イエスの埋葬の出来事です。主を葬った者たちは、主が本当に死なれたのだという現実に打ちひしがれたことでしょう。」と、横井牧師は書きだされる。

アリマタヤ村出身のヨセフは、主イエスの弟子であり、ニコデモは最高法院に属する議員でファリサイ派の教師でもあった。大祭司たちはローマ兵の手によって、息を引き取られた主を十字架から取り降ろすようにピラトに願い出た。日没になれば安息日で、遺体を十字架上に残したままにしておくことは出来なかった。また、過越祭の食事を前に死体に触れる事も許されなかったからである。

ヨセフにとって、異邦人のローマ兵が主をぞんざいに扱い侮蔑する姿は見るに忍びない事であった。さらにそのご遺体を彼らが取り降ろすのは看過できない事であった。ヨセフは「主イエスの遺体を取り降ろしたい」とピラトに願い出た。せめて、丁重にユダヤ人の習慣に倣って埋葬したいと思った。ヨセフは主イエスの弟子であったが、それによって地位や財産を失う事を恐れ公言していなかった。

ピラトの承諾を得て「ヨセフは遺体を取り降ろした(18節)」 K牧師は「ヨセフは一人で主の手足の釘を抜き、主の遺体を処刑台から抱き下ろしました。血まみれの遺体、ヨセフの衣服にも血がついた事でしょう。その様子に最高法院の議員ニコデモが、没薬と沈香を混ぜた物を持って加わります。」と話された。それまで主の弟子であることを隠していた彼も、勇気をふるって主の葬りに加わった。

マルコ書、マタイ書、ルカ書では遺体を亜麻布で包み、まだ誰も葬られた事のない、岩に掘った墓の中に納めたと、マタイ書はヨセフの墓とあり、多少の違いがあるがそう記されている。ヨハネ書だけは「その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったのでそこにイエスを納めた」となっている。

ユダヤ人の王としてお生まれになった(マタイ書2章)主イエスは、ユダヤ人の王として殺された。死刑囚として殺されたが、勇気ある弟子たちによって丁寧に埋葬された。その意味で、私たちの葬儀も重要な通過儀礼であり、昨今簡易な葬儀を推奨される中で、全ての人の死、遺体は丁寧に扱われ、故人が生き抜いた人生全体が尊重されるべきなのだと、葬りの大切さをS牧師は話された。

ニコデモとヨセフのその後は分からない。自分もクリスチャンである事を公言していない。O牧師は「何かに遭遇した瞬間のとっさの判断は、日頃の良心的な生き方の賜物として現れます。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「段ボールの隙間に干し柿押し込まれ娘のもとから荷物がとどく 北島邦夫」


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マタイによる福音書 27章27~56節 [マタイによる福音書]

<三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(46節)>

「主イエス・キリストが十字架につけられた時、人々は『今すぐ十字架から降りて来い。そうすれば信じてやろう』と主イエスを侮辱しました。この人々の嘲りは『荒れ野の誘惑』の悪魔の問いかけに似ています。悪魔が人々の中に入って、主イエスを誘惑しているのです。」と、横井牧師は書きだされる。

「パウロが『私は福音を恥としない』と言った福音とは、十字架につけられた主イエス、三日目に蘇られた主イエスの事です。十字架刑というのは激しい苦痛と卑しめを与える事が目的でした。公然と人々の前で恥辱を与え、その自尊心を踏みにじる事が目的でした。私たちが恥としない福音とは公然と辱めを受けたキリストについての福音であります」とS牧師はイースターを前に話された。

「お前がユダヤ人の王なのか」と問う総督ピラトに、「それは、あなたが言っている事です」とお答えになり、ローマ皇帝が「王」なのに自分が王であると言ったとして主イエスは罪に定められた。囚人バラバとの「二人のうちどちらを釈放するか」とピラトが群衆に問うと「バラバを」と人々は叫んだ。「そこでピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した(26節)」

兵士達は主イエスを総督官邸に連行したうえ、主イエスの着ている物をはぎ取り、緋色のマントを着せ、頭に茨の冠をのせ、右手に葦の棒を持たせ「ユダヤ人の王万歳」と言って侮蔑し、唾をはき、葦の棒で叩き続けた。「絵画で見る十字架の主から想像できない惨めなお姿です。主はゲッセマネの森で、父なる神に全てを委ねられました。その信頼が主を支えています。」とS牧師は話された。

それから、主イエスは十字架を担いで城壁の外にある処刑場ゴルゴダに向かわれた。ゴルゴダに着くと兵士が、麻酔の働きをするものを主イエスに飲ませようとしたが主はそれを拒まれた。「私たちの罪の対価を支払うために、その痛みを味わわれるのです」と牧師が説かれた。そして両手両足を十字架に釘付けされた。ここを読む者にその痛みが伝わってくる。

通りかかった人々が「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(40節)」と罵った。主はご自分の事を神殿と言われ、三日目に復活される事を言われていた。ユダヤ人が使う「救い」と、神が御心としておられる「救い」の間には大きな乖離がある。今を生きる者も神に「救い」を祈るが、それは神の御心なのかと自問する事が求められる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ホワホワと気泡ふくらむやさしさに白梅咲けり馴染みの路地の 豊島ゆきこ」


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