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コリントの信徒への手紙Ⅱ  4章1~18節 [コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。(6節)>

「今日においても、私たちの周りには考え方や心に覆いをかけてしまうような人の気持ちや声という『この世の神』の力が強く働く事があります。ただ、パウロはその力によって福音が人の心に入り込む余地がなくなるとは言っていません。」と、中道牧師は書きだされる。

パウロが、コリントを離れエフェソに向かって宣教をしている間、コリントにはエルサレムから派遣された人々が信徒たちを指導していた。それは、ユダヤ教の色が濃い教えであり、パウロの宣教に心打たれユダヤ教から回心した信徒たちであったのに、彼らは易々と受け入れた。それで彼らは「パウロが語る福音には覆いがかかっていて受け入れ難い」と非難した。

「私たちの福音に覆いが掛かっているとするならば、それは滅びの道を辿る人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとしないこの人々の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。(3.4節)」と、パウロは記し、神の言葉を受け入れやすい言葉に変えて伝道するようなことはしないとはっきり断言した。

K牧師は「私たちが語るべきは十字架につかれたキリスト、私たちのために死んで下さったキリストのみです。キリストは十字架を負われ、絶望のうめきをあげられ闇の陰府に降られました。私たちもその十字架を負って、パウロにならって福音を隣人に告げてゆくのです。」と、話された。

パウロの外見は貧相で語り口もあまりスマートでなかったのかもしれない。それさえも人々はパウロを「素焼きの土の器だ」と皮肉ったのだろう。それに対してパウロは「あなた方は私を見て、この土の器に何の価値もないと思っているだろうが、しかし私が土の器だからこそ、神の栄光が現わされるのだ」と言った。この確信が、批判され、苦しめられ、苦難しても、パウロは伝道に落胆する事がなかった。

「私たちは、いつもイエスの死をまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死に曝されています。死ぬはずのこの身にイエスの命があらわれるために(10.11節)」

そして「私たちは見えるものでなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」と、パウロは4章を結ぶ。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「手花火のような雨音聞いている明日の約束断りしのち 松本志李」


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