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コリントの信徒への手紙Ⅰ  9章19~27節 [コリントの信徒への手紙1]

<福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(23節)>

「パウロは自分の意志で『奴隷』になったと語ります。強制的に奴隷にさせられたのではなく、自ら『すべての人の奴隷』になった、と。単純に奴隷になったと聞くと消極的に感じますが、そこにはキリストの十字架によって自由にされた喜びによる積極的な姿が見られます。」と、中道牧師は書きだされる。

できるだけ多くの人に福音を伝えるために「全ての人の奴隷になりました(19節)」とパウロは語る。「ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、弱い人に対しては弱い人のように」と言い「全ての人に対して全てのものになりました(23節)」と主張する。

「人のように・・・」という言葉が続く。それは、相手と同等になり、同じ振る舞いをし、同調し、妥協する事を意味していない。いつも目の前にいる相手に同調し、迎合ばかりしていたら、自分自身を失う事になる。

O牧師は「パウロはここで人間関係ではなく宣教について話をしているのです。商売事や技術にはそれなりの取得の道があって易々と無視はできません。けれど、主イエスの福音は迎合や、妥協、取引によって伝えられ広がっていくものではありません。」と、話された。

そして、戦国時代、我が国に来た宣教師たちは、日本語習得にまず取り組んだ。アルファベットを用いて日本語で記した「伊曽保(イソップ)物語」は、彼らが極東の島国に住む人々とのコミュニケーッションを望んでいたかがうかがわれる。と続けられた。他者の立場に立って、その人だったらどう感じるかといことを想像する能力で、神さまから頂く事が出来ますよう祈り求めなければならないと言われた。

「あなたがたも賞を得るように走りなさい(24節)」 パリ五輪が近づいて、この言葉に追われている人をテレビで゙見るたび「なんだかなぁ」と思ってしまう。けれど、パウロはここで「賞」の背後にある「プロセス」が重要だと訴え、「私たちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。(25節)」と勧める。

「自由にされた者として、・・・相手との関係性を妨げるものはないという事です。だからこそパウロは自分のことを二の次にしてしても、他者と関わり、友と共に福音の喜びに与るために走っているのです。」と、中道牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「とろみある水の小舟に乗せられて薬は母の喉くだりゆく 一宮奈生」


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