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ローマの信徒への手紙  6章1~11節

<このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 (11節)>

5章までは、全ての人は罪人なので神からの栄誉を受ける事が出来ない。ただ神の恵みにより、主を信じる信仰によってのみ義と認められるという事が述べられてきた。そして、今日の6章の書き出しは「では、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだ私たちがどうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。(1.2節)」と、始まる。

22節の「罪が増したところには、恵みはなお一層満ち溢れました。(20節)」というパウロの言葉を彼に反感を持つ人々が誤解した。それでは、もっと罪を犯せばいいのかと、皮肉をもって言いだす人がいた。そうではなく、どんなに大きな罪でも、またその罪がどんなに罪深いものであったとしても神の恵みはそれ以上なのであるとパウロは答える。神の恵みの祝福を論争の種にしてはならない。パウロの言葉に反感を覚える人々は、自分たちの都合のよいように解釈しようとしていた。

聖書通読を勧められるが、良く分からない箇所が多く、そのまま読み続けるのだったら、お経みたいだと拒み続ける者に、K牧師は「とにかく聖書をそのまま信じるのです。読み進めるうち、聖書が言う強調点を、メッセージに従って理解する事が出来ていくのです」と、話されるのだが・・・。

反感を持つ人々にパウロは「それとも、あなた方は知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死に与かるために洗礼を受けたことを。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与る者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。(3.4節) 」と述べる。

O牧師は「彼らが知らなかった事、それは、クリスチャンはイエス・キリストにつなぎ合わされた存在ですから、主イエスと同じように考え、歩み、生きる者である事を知らないのかとパウロは彼らに言います。私たち一人一人は小さなキリストです。私たちはキリストとつなぎ合わされているので、キリストと同じようになり、同じような体験をする者にされているのです。」と話された。

キリストに結び付けられた者は、キリストと同じように十字架の死を味わう事になるのだ。主と共に十字架につけられた時、罪の体が滅びて、罪から解放されるのだとパウロは訴える。読むだけではすんなり理解できないが、それは自分がどこかで主イエスの弟子になる事を渋っているからだろう。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「遮断機がいつまで待ってもあがらない こちらは吹雪あちらも吹雪 成瀬真澄」


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