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マタイによる福音書 2章13~23節  [マタイによる福音書]

<ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトから私の子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(15節)」>

「ヘロデ王の憎しみが、幼児虐殺の命令となって国中を覆います。主をどのように見るのか。真実の王と信じて膝を屈めるのか。自分の立場を脅かす邪魔な存在として受け止めるのか。聖書は、まだ何もしない幼子への扱いを示す事で、主イエスという『存在』の受け止め方を問いかけます。」と、榮牧師は書きだされる。

東方の博士たちが「ユダヤ人の主を拝みにやって来た」という知らせに、ヘロデは動揺した。彼はユダヤ人ではないのに、ユダヤの王として横暴に振舞っていたからである。3人の博士は幼子イエスを拝み贈り物を献げた後に、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国に帰って行った。彼らが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れた。

「起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている(13節)」と言った。そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母親を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。

ここで「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼びだし、わが子とした。(ホセア書11章)」の、預言が成就する。また、当時エジプトへの逃避はごく自然の場所であった。エジプトはローマ帝国の支配下にあったが、ヘロデ王の管轄外にあった。旧約聖書の中にはエジプトに逃亡する人々がたびたび登場し、その頃はすでに約百万人ものユダヤ人の共同体があったと言われている。

「さて、ヘロデは占星術師の学者たちにだまされたと知って、大いに起った。(16節)」 その結果、人を送り、彼らから聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。それは「ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が・・・(エレミヤ書31章)」預言者エレミヤを通して語られたことが成就したのだと、マタイは語る。

K牧師は「私たちの主は、出エジプトの苦しみの歴史に繋がって下さり、バビロン捕囚の苦悩と嘆きも味わわれたのです。」と話された。ヘロデが死ぬと、再び主の天使がヨセフに夢で現れて「起きて、その子と母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を狙っていた者どもは死んでしまった」と言った。そこで彼らはイスラエルの地に帰って来たが、そこは、ヘロデの後継者が支配していた。

み告げを受けて、ガリラヤ地方のナザレに住み、主イエスは預言書通り「ナザレの人」と呼ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「みそポテト食べつつ聞きおり夕ぐれの秩父の町に流れるお囃子 村上春枝」

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ルカによる福音書 2章36~40節  [ルカによる福音書]

<また、アシュル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。(36~37節)」>

「ユダヤ人は13歳で成人とされます。『若いとき嫁いで』ということは、成人した10代の内に結婚したということでしょうか。7年だけの夫婦生活の後、60年近くは神殿で神に仕える働きをしていた。そういう一生を歩んだ女性が、今や84歳のアンナです。」と、榮牧師は書きだされる。

シメオンが神に賛美を献げている、「その時、近づいてきて神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子の事を話した。(38節)」 シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望んだ。アンナはエルサレムの救いを待ち望んだ。2人とも、自分の願いを実現する事ではなく、神の救いが実現する事を待ち望んだ。どれほど、時代が混乱し、時が過ぎてもただひたすら待ち望んだ。

O牧師は「待ち望むことは、信仰にとって大切な姿勢です。けれど、待つことは人気のあることではありません。多くの人は待つことは時間の無駄として早い方法を考えます。私たちが待てないのは、それでは後れを取るという心の恐れに支配され、常にその恐れに駆り立てられているからでしょう。神様の御業を待つことができないのです。」と、話された。

ルカがシメオンとアンナについて語ったのは、彼が福音書を書いた時代にキリスト者たちの間に動揺があった。復活して天に昇られたキリストがすぐにも来て下さると思っていたのにまだ来て下さらないからだ。それは、連日ウクライナ、パレスチナが爆撃されているのに、いつまで待たされるのか、神への祈りは届いているのか、神はなぜ答えて下さらないのかと動揺する今、現在の私たちの姿である。

この世にあってそのような嘆き、呻きをもって歩む私たちに、シメオンとアンナの姿は救いの完成を忍耐強く待ち望むことを示す。ルカは終わりの日にキリストが再び来られ、神の支配が完成する事を待ち望むようにと励ます。私たちにはその日はいつなのか分からない。けれど、主イエスの十字架と復活によって救われ、終わりの日にキリストと共に復活し永遠の命に与るという、希望が与えられている。

O牧師は「たとえ、終わりの日が来る前に地上の歩みを終えるとしても、私たちはその希望によって救われ、キリストによる平和のうちに地上から去って行くことができるのです。死を恐れず、時代の混乱に惑わされず、復活の希望を持ち、救いの実現を待ち望むのです。」と、結ばれた。

神殿に詣でるたくさんの幼子の中から、シメオンは神の独り子を見分けた。自分にも見る目、聞く耳が与えられますようにと祈る。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「雨傘に喩へて君は僕を言う 濃紺で骨は十六本の  永山凌平」


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ルカによる福音書 2章25~35節  [ルカによる福音書]

<これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です。(31~32節)」>

「メシアに会うまで死なないとお告げを受けていた老シメオンは、赤ちゃんイエス様を見て神様を讃えます。霊によって赤ちゃんイエス様を見るシメオンは、もう思い残す事はないかのごとく、自分が『安らかに』去ることを喜びます。」と、榮牧師は書きだされる。

ヨセフとマリアが、律法に従って御子イエスを主に献げるため、エルサレムにやって来た。「その時、エルサレムにシメオンという人がいた。」 シメオンのことは、預言者、祭司とは記されず、彼が特別な地位や身分を持つ人とも記されていない。

彼はエルサレムでごく普通に暮らす人物で、「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わされるメシアに会うまで決して死なない、とのお告げを受けていた(25節)」と、ルカは記す。シメオンは、神さまから「メシアに会うまでは死なない」と告げられ、その神の約束をひたすら信じて待ち望み、主イエスに出会えたのである。

彼が聖霊に導かれて神殿に入って行くと、ヨセフとマリアが幼子主イエスを抱いて神殿に入って来た。シメオンは幼子イエスを胸に抱き神を賛美した。

「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。(29~30節)」 シメオンは確かに自分の両目で胸に抱く幼子イエスを見ているが、彼は目に見える幼子イエスを見て、目に見えない神の「救いを見た」と言った。彼は見えない神の救いを信じる信仰によって「安らかに去る」のである。

「『安らかに去る』とは、『平和のうちに』という事でしょうか。ここで言う『平和』は、人の力によって作り出すものでなく、主イエス・キリストによる平和であります。主イエスの十字架の死によって、神と人間の間に実現する平和です。シメオンは神の救いを見て、このお方によって打ち立てられる事になる平和のうちに去ることができると言ったのです。」と、O牧師は話された。

シメオンが見た神の救いは、全ての人、ユダヤ人だけでなく、つまり異邦人にも備えられた救いであると賛美する。そして最後にマリアに警告する。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれる」と。

事実、「救い主」は、ユダヤ人が期待した通りの救い主ではなかった。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「山芋を焼いてあるいは生のまま春過ぎまでのおやつ三昧 野上浩志」


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ルカによる福音書 2章21~24節  [ルカによる福音書]

<さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎた時、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 (22節)」>

「ユダヤ人男子は生まれてから8日目に割礼を受け、その後33日たって焼き尽くす献げ物が献げられます。(レビ記12章) これらのユダヤ人男児への律法規定に加え、初子を聖別し主のものとするために銀5シュケルを献げました。(民数記3章)」と、榮牧師は書きだされる。

8日たって割礼を受け、幼子はイエスと名付けられた。ユダヤ人の女性は出産後、宗教的に汚れているとされた。男児が割礼を受けた後、更に母親は33日間家に止まり、一連の社会生活から離れなければならなかった。33日間が過ぎマリアはヨセフと共にイエスを連れてエルサレムに向かった。

22~24節の間に繰り返し、お生まれになった御子が「律法の定めに従った」と語られる。なぜ、すでに聖別されている神の御子が律法に従うのか、御子はイスラエルの民の救い主であるだけでなく、全ての人、民族や国家といった境界を越えた全ての人に救いをもたらす方であるのに、なぜイスラエルの民に与えられた律法に従うのかと思ってしまう。

「律法に従って赤ちゃんイエス様も神殿に向かい、儀式を行います。しかし、主イエスには聖別も、代価の買い取りも必要ありません。儀式のまえから聖別された方が、私たちの主です。主が神殿に来られたのは、ご自身を献げるためです。主は罪人なる私たちと同じように儀式をうけられます。同じ姿で歩んで全ての罪を背負い、ご自身を献げられるのです。」と、榮牧師は答えられた。

「すべての初子を聖別して私にささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開く者は全て、人であれ家畜であれ、私のものである。(出エジプト13章)」 この律法に従って幼子イエスを、ヨセフとマリアは主に献げた。ルカが繰り返し律法の定めに従ったと語るのは、神さまの独り子が「真の人」となられ、律法のもとに生まれた人となって下さったことを強調するためであった。

神の独り子であり、真の神である主イエスが真の人となって下さったとは、主イエスもまた特定の時代、特定の国や民族に属してお生まれになった事にほかならない。主イエスはローマの属国となっているユダヤの国で、律法の支配の下に生きていた人々と全く同じ者となって下さったのだ。そして、十字架に架けられ、死んで下さった事によって、人々は律法の支配から解放されたのである。

ルカは神の独り子が律法の下に生まれて下さったと強調し、主イエスによる律法からの解放を語っているのである。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ついてくる ついてくるよと繰り返し子の振り返る 今宵満月 鳥本純平」


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マタイによる福音書 1章18~25節 2章1~12節 [マタイによる福音書]

<「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。(1章23節)」 >

「メリークリスマス!イエス・キリストのご降誕に感謝し、主の救いの御業をほめたたえます。イエス・キリストの誕生が語られます大事なこの箇所に、主イエスの父ヨセフは、ひと言も発していません。いったいなぜ彼は沈黙していたのでしょうか。そこで、このクリスマスイブに主イエスの誕生に果たしたヨセフの役割と彼の信仰について学びたいと思います。」と、K牧師は話し出された。

ヨセフとマリアはすでに婚姻関係にあったが、当時のユダヤの慣習によって結婚までには、「許婚」「婚約」、そして結納金のような慣習も経なければならなかった。法的には婚姻関係にあったが、2人はまだ結婚に至らず、一緒に住んでいなかった。そのような時、マリアが身ごもった。

「この身になりますように」とマリアは受け入れたものの、ヨセフにどう伝えたらいいのかマリアは苦しんだが、主の守りを信じこの事実をヨセフに話した。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアの事を表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。(19節)」 そのヨセフに主の天使が現れた。

誰にとっても信じられない話だが、この事によってマリアはさらし者にされ石打の刑を受けるかもしれない。彼女にそのよう事があってはならないと、彼は密かに離縁しようと決心した。彼はマリアに下される罪を思い、それを自分のこととして受け止め、苦悩しながら決心した。しかし「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」と天使が言い、その理由が示されると、彼は離縁の考えを捨て、主に従った。

主イエスがベツレヘムでお生まれになった後、東方から3人の占星術の学者が「新しく生まれた方は、どこにおられますか」と王宮を来訪した。彼らの新王誕生の話はヘロデ王やエルサレムの人々を不安に陥れた。彼らは星に導かれてベツレヘムに行き、示されるまま馬小屋に入ると、そこには母に抱かれた幼子イエスがいた。彼らはひれ伏しその子を拝み高価な贈り物をささげた。

彼らは東方の人で、聖書を全く知らなかった。ただ星に導かれて、神が告げられる預言の言葉に従い進むと、馬小屋の上に星が輝いていた。そこで彼らは、神が与えて下さる「新しい王」とは、どのようなお方であるのかを知る事となった。

旧約聖書には、救い主の誕生は闇の中に輝く光としてすでに預言されていた。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ書9章)」

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「日曜をふらんふらんと過ごしけり磯野家は今日も穏やかである 百崎謙」


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