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ルカによる福音書 6章1~11節 [ルカによる福音書]

<そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」(9節)」>

「2つの安息日論争が証しされます。1つ目の論争は、イエス様の弟子たちが安息日に『麦の穂を摘み、手で揉んで食べた』ことに起因します。2つ目の論争は、イエス様が安息日に右手の萎えた人を癒されたことに起因します。安息日に一切の労働を禁じている律法に照らせば、どちらも律法違反であることは明白です」と、阿部牧師は書きだされる。

弟子たちが、安息日に麦の穂を摘み、手で揉んで食べたことに対するファリサイ派の人々の非難に主イエスは、サウル王に追われたダビデが空腹だったときに、神の家に入り、祭司のほかには食べてはならない供えのパンをとって食べ、供の者にも与えた事(サムエル記21章)を話された。

弟子たちは無意識に摘んだ麦の穂を揉んで食べたのだろう。他人の麦畑で麦の穂を摘むことは、申命記23章によって許されているが、問題は弟子たちが麦の穂を揉んだ事にある。安息日はユダヤ教の律法の中でも神聖なものであり、金曜日の日没に始まり土曜の日没までを守られていた。

十戒の第4戒は「安息日を聖別し・・・主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」と定められていた。安息日は「聖なる集会の日」とされ、感謝と喜びをもって天地創造の神を礼拝する日とされていた。主イエスの時代、安息日の禁止実行は39,更に39の細則がそこに付され、1521もの禁止事項があった。麦の穂を揉むのは、収穫、脱穀の禁止を犯す事だとみなされた。

主イエスは彼らに「人の子は安息日の主である(5節)」と言われた。主イエスが安息日の律法に勝るものであり、その適用を決定する存在であることをはっきりとファリサイ派の人々に宣言された。

ファリサイ派の人々にとって、律法は禁止のリストであった。しかし、その多くは聖書から出たものではなく伝統や習慣から生み出されたものであり、人間を束縛する以外の何物でもなかった。律法を守るとは、無数の規則に従う事だとする考え方に対して主イエスは「否」とされる。そして、律法は人間の生活を守るものであり、安息日は人間を真の自由へと解放する日である事を明確にされた。

「主イエスの論点は『善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』にありました。安息日の目的は『労働しない事』ではなく、『神を相応しく礼拝する事』であるからです。そうであれば二つの出来事は御心に適うと、彼らの批判を退けられるのでした。」と阿部牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「とりあえず否定したがる義父に似たわたしは今日もでもと呟く 阿部はづき」


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