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ローマの信徒への手紙  5章1~11節 [ローマの信徒への手紙]

<私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で今の信仰によって導き入れられ、神の栄光に与る希望を誇りにしています。(1.2節)>

「パウロは4章で、主イエスを信じるとき、私たちの罪が赦されて義と認められると語ってきました。神との間に『平和』がないのは、神から離れてしまった人の姿です。けれども、信仰によって義とされその待ち望んでいた『平和』を得る事が出来るようになりました。それが、新しい生活なのだとパウロは述べていきます。」と、K牧師は話し始められた。

今日の個所には何度も、義とされる前の私たちの状態が記される。「不信心な者(6節)」「罪人(8節)」「敵(10節)」 として。それらは義とされて、十字架の主イエスがその荷を負われて死なれたのになお繰り返す私たちの弱さである。それで、自分の中にある罪、弱さ、醜さから救って下さいと願い求め、隣人を愛し、教会に奉仕し、自分の力で、知恵で何とか安心を得たいと考えてしまう。 

しかし、パウロは「義」とされることですでに「平和」を得ているのだと語る。「平和」は、自分の努力で得られる物でなく、神の側から与えられるものであると。たとえば、教会内で誰かが自分の正義を主張しても、そこから「平和」は生まれず、かえって衝突や不和が生じてしまう。平和は完全な神の側からの赦しの宣言を受ける事によって、初めて平和を受け取ることができるのだと、2節は説く。

「神の栄光に与る希望を誇り(2節)」と記し次に、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。・・・苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望生むという事を。希望は私たちを欺く事がありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(3.4.5節)」と続く。

主の祈りでは「我らを試みに遭わせず」と祈る。痛い目には遭いたくないが、そういう道を歩まなければ真の信仰に到達できないのだろうかとも思うが、神の愛が注がれているから大丈夫らしい。

K牧師は「神の愛の心が、聖霊の働きによってすでに私の心と一つになっているのです。聖餐式においてキリストの血潮を頂き、キリストの御体を頂き、私の中に注がれている神の愛を確認するのです。神はその自らの義しさゆえに、罪を、不義をそのままにしておくことができず、その結果として人は死を身に受ける事になったのです。」と話された。

「敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させて頂いたのであれば、和解させて頂いた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。(10節)」

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「かつお菜を見つけてかごに入れるとき博多ですかと知らない人に 宮脇泉」


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