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ローマの信徒への手紙  3章1~8節 [ローマの信徒への手紙]

<彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人は全て偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは言葉を述べる時、正しいとされ、裁きを受ける時、勝利を得られる」と書いてある通りです。 (29節)>

ユダヤ人たちは自分たちだけが神に選ばれた民、その神の選びの印が律法であり、割礼だと考えていた。これらのものを神から与えられていることを誇りとし、それによって自分たちは神の御心を知らされ、本当の知識と真理を弁えていると思い、それらを持たない異邦人を闇の中にいる者、無知な者として蔑んでいた。

しかし、パウロの教えは彼らの誇りや自負を徹底的に否定し、打ち砕くものであり、ユダヤ人たちを激しく怒らせることになった。彼らはパウロの教えは間違っていることを様々な方法で示そうとした。パウロは彼らが自分を批判して語っている事を取り上げたうえで、4節、6節には「決してそうではない」を繰り返す。

特別な民であることを認めたうえで、「まず、彼らは神の言葉を委ねられたのです。」と記す。その事がユダヤ人に与えられた特別な恵みであることを記す。

ユダヤ人は神からの語りかけを受け、導かれていた。彼らは委ねられたみ言葉に応答する責任がある。にも拘らずユダヤ人はそれを特権として、自分たちは他の民族より優れていると錯覚し、異邦人を蔑み裁き、与えられたみ言葉を自分の所有物のようにしていた。神は彼らを信頼してみ言葉を委ね、彼らがみ言葉に生きる事によって、神の栄光が示される事を望んでおられたのに。

ユダヤ人は、確かにパウロのいうとおりだが、ユダヤの歴史は神の言葉に不誠実な事実の連続であった。しかし、ユダヤを神がご自分の民とされた事は無効にはなっていないはずだ。約束を破られる神ではないので、我々が異邦人と同じという事はないと、強烈な特権意識、身勝手な主張を続ける。

神に選ばれた者たちの中に不誠実な者がいたとしても、それによって神の選びの約束が無になってしまう事はない。神は真実な方であり、ご自分のなさった約束をどこまでも誠実に守り実行される。その契約の恵みがユダヤ人の罪によって破棄されてしまう事はないとパウロは言った。

K牧師は、赦しの前には何より悔い改めが必要ですと話され、詩編51篇ダビデの詩を読まれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「会議室広くて暗し窓全て開け放ちたり議題進まず 北乃まこと」


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