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マタイによる福音書  18章21~35節 [マタイによる福音書]

<その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分の百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め「借金を返せ」と言った。(27.28節)」>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第11回目<「使徒信条 11 「罪の赦し」 ―今ここにおける新しい命への招きーと題された、元キリスト者学生会主事。現在、米国トリニティ神学校修士課程在籍 岡谷和作氏の記事を読んだ。

「私たちが使徒信条で『罪の赦しを信ず』と告白する時、何を信じているのでしょうか。マタイ書18章では到底返済する事のできない借金を背負った家来が、王の温情によって借金が帳消しとなります。罪の帳消しが「罪の赦し」の一つのイメージです。ヘブライ書8章12節『私は彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』とあるように、十字架上で私たちの罪の代価が支払われた事により、神は私たちの罪の記録を削除して下さるのです。」と岡谷氏は記される。

神は罪を帳消しにされ、私たちをキリストの「義」で覆って、招いて下さる。それが私たちの信じる「罪の赦し」だと岡谷氏は記される。そして和解は一方通行では成立せず、神の側から、イエス・キリストの贖いの御業を通して手を差し伸べて下さったのだと。キリストにおいてもたらされた「罪の赦し」を信じます、受け取りますと私たちが告白する時、主の招きに応答しているのですと。

「私たちは赦された者として、罪を赦すようにと召されています。礼拝で祈る主の祈りには『我らに罪を犯す者を、我らが許すごとく、我らの罪をも赦したまえ』の一節があります。これは私たちがゆるしたのだから神様も私をゆるして下さいという交換条件ではなく、無条件で赦して頂いた者として、私も罪を犯す者をゆるしますという宣言の祈りです。」と、を示された。

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦しあいなさい。主があなた方を赦して下さったように、あなた方も同じようにしなさい。(コロサイ書3章)」

1994年、ルワンダで内戦が勃発した。その最中セレスティン牧師は家族を殺害された。牧師は怒りに心が支配され、加害者を赦す事に激しい葛藤を覚えた。しかし、赦された者として加害者を赦す歩みの中で自らが解放され、キリストによる新しい命を体験して行かれた。

失言しては、落ち込む自分だが、それが「罪」だとまでは自覚せず、神から「罪の赦し」をという思いまでには至っていない。「先ず罪を自覚して悔い改めして下さい」とK牧師がきっぱり言われた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「はっきりといひきる語尾の強さもつあなたは傷を恐れない人 小田桐夕」


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