SSブログ

ローマの信徒への手紙  3章9~20節 [ローマの信徒への手紙]

<「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれもう役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。(10~12節)>

「神から自分たちは選ばれた民だというユダヤ人も、その彼らから異邦人と蔑まれている人々も、みんな平等に神の裁きの前に立つのだとパウロは語ります。そして、その流れの中で『ではどうなのか、私たちには優れた点があるのでしょうか』と、問いかけます。」と、K牧師は話し出された。

「優れた点は全くない」とパウロは否定する。3章冒頭で、御言葉を委ねられたという点においてはユダヤ人は優れていると語ったばかりなのに。ユダヤ人の特別の価値を認めているが、全ての人間は罪の下にあり、その事において全ての人間に優れた点はないのだと語る。自分が神に対して正直者なのかと問われれば、自信がないが「罪の下」にいる者だと教会で指摘されるのは面白くない。

「私たちは真面目に生きていますが、落ち込み、反省し、やり直しながらです。聖書がいう『罪』の本質というのは、人間が自分でどうにか出来るというものではないということです。反省して心入れ替えてやり直したらいい、そういう生易しいものではないのです。私たちは罪をコントロール出来ないのです。「罪の下」にいる私たちは、自分で自分の罪をどうにもできないのです。」とK牧師は話された。

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない」 ユダヤ人は御言葉を委ねられていた。この時代、聖書学者はたくさんいて御言葉は研究され、皆その内容も熟知していた。しかし、本当の意味で神を求めている人はいないのだと、詩編14篇を示しパウロは嘆く。

詩編は「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」と続くが、役に立たないとはどういう事だろうか。イエス・キリストの十字架、復活を抜きにした神との関係は「役に立たない、無益なもの」、虚しい存在でしかないと。私たちは言葉によって罪を犯し、その結果、破壊と悲惨があり、平和の道を歩めない。神への畏れがないと詩編は指摘する。

「主を畏れる事は知恵の初め」神を畏れる、神を神として敬う。そこから神と人間の関係が回復し、神の前で豊かに生きる。人間の幸せはそこから始まるという事を教えられながら、神を畏れる事が出来ない。神を畏れる者は、知恵のない、科学技術のレベルの低い者だと考えるようになる。自分が神になり、強いと思い、神などいらず全てがコントロール出来ると考える。

K牧師は「科学の発展を聖書は否定していません。でも神を畏れない者はその技術を正しくコントロール出来ないのです。終わりの見えない戦争を覚えて祈りましょう。」と結ばれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「秋晴れの林にあけびを捜しつつ高枝ばさみ抱えて歩く 石川洋光」
コメント(0) 
共通テーマ: