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エズラ記  5~6章  [エズラ記]

<「この命令をあえて犯し、エルサレムにあるこの神殿を破壊しようとする王や国があれば、そこをご自分の名の住まいとされた神が、一人残らず滅ぼされるように。わたしダレイオスが、この命令を下す。命令通り実行せよ。」(6章12節)>

神殿の再建工事が始まった。預言者ハガイとゼカリヤが「ユダとエルサレムにいるユダの人々に向かってその保護者であるイスラエルの神の名によって預言したので」ゼルバベルとヨシュアは立ち上がった。しかし、その時、ユーフラテスの総督とその仲間が彼らのもとに来て、誰がお前たちに神殿再建を命令したのかと尋ね、その報告書をダレイオス王に送り、それに対する王の返書が送られて来るのを待った。

彼らの報告書の写しによると、「大いなる神の神殿は、切り石で建てられ、壁には板が張られ、彼らの手によって完成は間近である」というものであった。そして、誰がこの神殿再建を命じたのか、誰の名によって立てているのか、その名を尋ね、ゼルバベルからの答えを添えて報告した。

ゼルバベルは「我々は天地の神に仕える僕であって、神殿はイスラエルの王が建てて完成させたものである」と、語り出し、イスラエルの歴史における罪を隠すことなく話し、キュロス王が神殿再建を命じられたと答えた。報告を受けたダレイオス王は、バビロンの記録保管所を調べ事実確認する事を命じた。

その結果「キュロス王の第一年、キュロス王、勅令を発布。」と始まる覚書が見つかった。ユーフラテスの総督とその仲間は、工事を止めさせるために王に手紙を送ったのだが、逆転してしまった。この事によって、神殿再建工事を続行のため、彼らも働くようにとの命令を王から受ける事になった。

O牧師は「大きな山を大きな山のまま見てはならないのです。山陰になってと思っていた山が、豊かな水が湧きだす山であったりするのです。これが神の摂理です。その時には理解出来ないけれど、あらゆることを統合させて、調和させて、すべてご自分の栄光のために働かせるのが、神の知恵です。私たちはただ黙って主を仰ぎ見るのです。」と話された。

神殿を建てるためにユダの長老たちを援助し、神殿への献げ物を欠かす事がないようにと命じた王は、これらすべての命令を犯す王や国があれば「神が一人残らず滅ぼされるように」と言った。ダレイオス王は異邦人であるにも関わらず、主なる神を畏れていたのだろうか。

「バビロンのネブカデネツァル、メディアのダリヨス、ペルシャのキュロス、そしてダレイオス、皆異邦人ですがイスラエルの神にある程度の信仰を持っていたのでしょう。自分の全てをもって神を信じていたかは不明ですが、神は確かに国の指導者の心に働きかけておられます。昔も今も。」とO牧師は結ばれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「大阪の町はごちゃごちゃとミックスジュースみたいな色した夕日が沈む 福田恭子」

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フィリピの信徒への手紙  2章1~11節 [フィリピの信徒への手紙]

<かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、遜って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(7.8節)」>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第10日<「使徒信条 10 「聖との交わり」 ―聖なる神との交わりの中で、聖なる者とされるーと題された、日本基督教団大森めぐみ教会 関川泰寛牧師の記事を読んだ。

「教会も様々な人間の集団です。教会員同士の誤解や行き違い、争いと無縁ではありません。互いに憎しみあったり、時には倫理的な問題を孕むような人間関係が生じる事もあります。教会の交わりとは何かという根本から考えてみる事にしましょう。」と関川牧師は書きだされる。

教会の交わりで大事な事、その① 「パーソナルな関係を築く」 教会員は性別、年齢、職業、出自、財産、社会的地位など、ほんとに様々である。その人々が対等(パーソナル)に交わりを持つのはとても難しい。どうしても力ある者が優位に立ってしまう。

それでも、互いに人間そのものへの深い関心と尊敬を持ち、主に愛されている者同士が、相手に自分自身を与える姿勢を持った交わりをすることが大切である。また、誰かを許せなくなった時、自分自身の胸に手を当てて「私自身も、どれほど自分の心を開き、相手を受け入れる準備があったかを反省し、黙想してみる事が大切です」と関川牧師は記されている。

その②は「聖徒の交わりを信ず」 交わりの第一は、信仰ゆえに集められた、教会員相互の交わり。第二はそれだけではなく、生ける神ご自身との交わりというキリスト者の信仰生活にとって最も大切な事がある。「イスラエルの民は、初めから道徳的に正しかったから聖とされたのではなく、聖なる神が働きかけ、聖なるものと触れる事によって、聖とさせられたのです。」と記される。

その③は「聖なるものとの交わりの場」 礼拝の本質は、「神が私たちに奉仕して下さったという驚くべき出来事にあります。神が己を低くして、御子の形をとり、僕のように自己卑下して下さったのです。この事によって神との交わりが可能にされているのです。」礼拝は神の奉仕だと言われる。

その④は「教会の交わりに生きる」 教会の交わりは「人間同士の親睦や友誼ではなく、神ご自身との交わりに根拠づけられたものです」とフィリピ書2章を関川牧師はあげられる。そして「神がご自分を無にして、この私に出会って下さった。それを思う時に、私も隣人へと自分を差し出す事が始まります。・・祈り、隣人を愛し、その苦しみを神へと執り成す生活へと押し出されます。」と結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「あきかぜに木の葉ちりゆく日の暮れのすべり台にまたおさながのぼる 垣野俊一郎」


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エズラ記  4章1~24節 [エズラ記]

<しかし、ゼルバベルとイェシゥア、他のイスラエルの家長たちは言った。「私達の神のために神殿を建てるのは、あなたたちにではなく、私達に託された仕事です。ペルシャの王キュロスが命じたのですから、私達だけでイスラエルの神、主のために神殿を建てます。」(3節)>

北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた(BC722年)、他の地域から移住させられた人々の子孫(後のサマリヤ人)たちは、バビロンから帰還した人々がエルサレムに神殿を再建すると聞いて、彼らのもとに来た。彼らはイスラエルに移住させられ、先祖が礼拝する神々とともに、イスラエルの神をも礼拝する混淆宗教に陥っていた。その人々が「私達も同じ神を求めているから、神殿再建に加わりたい」と、申し出た。

その申し出を、イスラエルの指導者たちは断った。彼らがたとえイスラエルの神を求めていても、多神教の彼らと共に神殿を建てることは出来なかった。彼らが神殿を拝するようになれば、様々な偶像が持ち込まれるに違いなかった。しかし申し出を拒否した途端、再建阻止が彼らによってはかられた。

クセルクセス王の治世の初めには、ユダとエルサレムの住民に対する告訴状が書き送られた。また、アルタクセルクセス王(465~424年在位)の時代には、すでに神殿が再建されていたが、なお妨害は続き、彼らは王に書簡を書き送った。その内容は「ユダの者を、今のままで放置していたら、彼らの反逆により王の名誉も土地も失う事になるでしょう。」というものであった。

アルタクセルクセス王は、ユダヤ人たちの過去を調査させ、書状の内容を事実と断定した。王は経済的損失、権威の低下、領土の損失を恐れていたので、訴状の内容を認めた。その時から、エルサレムの神殿工事は16年間中断された。それはダレイオス王の治世2年にまで及んだ。

神殿再建の協力を申し出たサマリア人たちは、純粋な思いがあったのかもしれないが、仮にそうであっても、多神教の人々が関わることで、偶像礼拝に陥ったり、霊的にダウンするリスクは十分にある。知恵者と言われたソロモンは多神教の多くの妻から影響を受け、ユダを崩壊させたと言われている。

K牧師は話された。「神礼拝において決して妥協してはなりません。神の御心は何か、何が神に受け入れられる事なのかを弁える必要があります。そのためには、絶えず神を礼拝する中で、自分自身が変えられ続ける必要があるのです。」と。

神殿再建は中断させられた、があきらめず祈り続ける。主の御心ならその時が与えられる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「台風の進路をおもふ雨上がり八日あまりの月のかかれる 山縣みさを」


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ローマの信徒への手紙  3章1~8節 [ローマの信徒への手紙]

<彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人は全て偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは言葉を述べる時、正しいとされ、裁きを受ける時、勝利を得られる」と書いてある通りです。 (29節)>

ユダヤ人たちは自分たちだけが神に選ばれた民、その神の選びの印が律法であり、割礼だと考えていた。これらのものを神から与えられていることを誇りとし、それによって自分たちは神の御心を知らされ、本当の知識と真理を弁えていると思い、それらを持たない異邦人を闇の中にいる者、無知な者として蔑んでいた。

しかし、パウロの教えは彼らの誇りや自負を徹底的に否定し、打ち砕くものであり、ユダヤ人たちを激しく怒らせることになった。彼らはパウロの教えは間違っていることを様々な方法で示そうとした。パウロは彼らが自分を批判して語っている事を取り上げたうえで、4節、6節には「決してそうではない」を繰り返す。

特別な民であることを認めたうえで、「まず、彼らは神の言葉を委ねられたのです。」と記す。その事がユダヤ人に与えられた特別な恵みであることを記す。

ユダヤ人は神からの語りかけを受け、導かれていた。彼らは委ねられたみ言葉に応答する責任がある。にも拘らずユダヤ人はそれを特権として、自分たちは他の民族より優れていると錯覚し、異邦人を蔑み裁き、与えられたみ言葉を自分の所有物のようにしていた。神は彼らを信頼してみ言葉を委ね、彼らがみ言葉に生きる事によって、神の栄光が示される事を望んでおられたのに。

ユダヤ人は、確かにパウロのいうとおりだが、ユダヤの歴史は神の言葉に不誠実な事実の連続であった。しかし、ユダヤを神がご自分の民とされた事は無効にはなっていないはずだ。約束を破られる神ではないので、我々が異邦人と同じという事はないと、強烈な特権意識、身勝手な主張を続ける。

神に選ばれた者たちの中に不誠実な者がいたとしても、それによって神の選びの約束が無になってしまう事はない。神は真実な方であり、ご自分のなさった約束をどこまでも誠実に守り実行される。その契約の恵みがユダヤ人の罪によって破棄されてしまう事はないとパウロは言った。

K牧師は、赦しの前には何より悔い改めが必要ですと話され、詩編51篇ダビデの詩を読まれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「会議室広くて暗し窓全て開け放ちたり議題進まず 北乃まこと」


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エズラ記  3章1~13節  [エズラ記]

<昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた。(12節)>

第七の月が近づくと、帰還の民は自分たちの町にいたが、一斉にエルサレムに集まって来た。彼らはモーセの律法を守るために、ラッパの吹き鳴らす日から始まり、そして贖罪の日、仮庵の祭りを守る。

神によって立てられた指導者は総督としてゼルバベル、また大祭司としてヨシュアがたてられていた。2人は神殿再建の時に用いられる器となる。この2人について預言者ハガイとゼカリアが叱責と励ましの預言を行う。

「彼らはその地の住民に恐れを抱きながら、その昔の土台の上に祭壇を築き、その上に焼き尽くす献げ物を主にささげた。(3節)」 60年の歳月は長かった。エルサレムは瓦礫の山となり神殿は崩れたまま放置されていた。所有権というものもない時代、誰かがその地を耕し、家を建てたとしても仕方がない事であった。彼ら周囲の人々が神殿再建を阻止し、敵対心を抱いたとしても責められない。

その人々に恐れを持ちながらも、朝夕焼き尽くす献げものを主に捧げ、新月祭、主の全ての聖なる祝祭、主に随意の献げものをする全ての人のために献げ物をささげた。モーセの律法にかかれているように行い、それを喜びとして行った。彼らにとって主の御心を行う事こそ喜びであった。しかし、神殿の基礎はまだ据えられていなかった。そこでキュロスの許しを得て、レバノン杉を調達した。

そして、翌年の第二の月、祭司を中心として、帰還の民と共に仕事に取り掛かり、20歳以上のレビ人を主の神殿の工事の指揮に当たらせた。神殿の実際的な事柄において霊的指導者が関わるのは、私達の教会もそうであった。牧師がその会堂建設や予算など、主に祈って具体的に主に与えられたものを管理し、使用していくのかを中心となって考える。

神殿の基礎が据えられると、祭服を身に着け、ラッパ、シンバルが鳴り、ダビデの定めに従って讃美歌を唱和して、主を讃美し感謝した。民も皆、主を讃美し大きな叫び声をあげた。神殿崩壊はBC586年、この時は535年。イスラエルに対する神の約束はただ言葉でしかなかった。しかし、それが成就されようとしている。多くの人々は喜びの声をあげた。

しかし、以前の栄華を極めた神殿を知る人にとって、それはお粗末なものでありすぎた。彼らはその事を通して、イスラエルが犯した罪の大きさを思い出さざるを得なかった。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「順番を並んで待っている卵昨日茹でられ今日は焼かるる 岡本妙」


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