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ヨハネの黙示録  2章18~29節 [ヨハネの黙示録]

<ただ、わたしが行く時まで、今持っているものを固く守れ、勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは諸国の民の上に立つ権威を授けよう。(25節)>

<ティアティラの教会の人々の行い、愛、信仰、奉仕、忍耐はよく知られていました。そればかりか『最初の頃の行いにまさっている』とまで評価されます。一方で女預言者の不品行を容認している人もありました。愛や寛容を誤用してしまったのかもしれません。」と、清藤牧師は書きだされる。

4番目の教会はティアティラ、使徒言行録16章で、家族と一緒に洗礼を受けパウロを家に招待する紫布を売る女性がティアティラ出身と記されている。織物、染料、革製品、陶器などの手工業の町で、同業組合(ギルド)が誕生していた。ティアティラには皇帝崇拝はなかったものの、この結束したギルドが経済活動の中心にあり、キリスト教徒は経済と信仰の狭間に常に立たされていた。

主はティアティラ教会の「行い、愛、信仰、奉仕、忍耐はよく知っている。」と褒められたものの「しかし、あなた方にたいして言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。」と指摘される。彼女は、自ら預言者と称し、人々を教え導き、惑わして、不品行に誘い、偶像に捧げた肉を人々に勧めた。主が与えられた、悔い改めの時も、彼女には見えなかった。

「目は燃える炎のようで、足は真鍮のように輝いている神の子」は、裁かれた。「私はこの女を床に伏させよう。この女と共に淫らなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、酷い苦しみに遭わせよう。また、この女の子供たちも打ち殺そう。こうして、全教会は、私が人の思いや判断を見通すものだと悟るようになる。…(21.22節)」

祈祷会では「献金」について学んだ。私たちの教会では年度末に教会員各自が、一年間の「維持献金」の額を提出し、会計はそれをもとに予算を立てる。インドネシア人のRさんが、インドネシアでは裕福な人がたくさん献金され、それが出来ない人に負担をかけないよと言われた。すると、K牧師が「それは危険な教会です。神の教会なのに誰かの教会になっていませんか」と言われた。

ティアティラ教会は、イゼベラのような女性を易々と教会に入れてしまった。K牧師は「熱心さはどこから来ているのか、自分の誠実さを人々に示すために奉仕していませんか。優しさを示すために誰かを助けていませんか。イゼベラは明るく、熱心な人であったのかもしれません。しかし、彼女がどこを向いているのか、気づかなくてはならないのです。私たちも流されてはなりません。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「見比べて持って比べて両の手に吸い付くようなどんぶり選ぶ 浅野美砂子」


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ヨハネの黙示録  2章12~17節 [ヨハネの黙示録]

<だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところに行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。(16節)>

<ベルガモンの教会の周りには、多くの偶像がありました。他の信仰の誘惑も少なくなかったようです。教会の中にも別の信仰に心惹かれてしまう人たちがありました。イエス様はその人たちに悔い改めるよう求められますが、悔い改められない時にも、イエス様の口の剣、つまりイエス様の言葉で戦い守ってくださるのでした。」と、清藤牧師は書きだされる。

3番目の教会ベルガモンは多くの神殿や図書館で有名な町である町を見渡す丘には、ゼウス神を崇める巨大な祭壇があった。様々なギリシャ神話の神々を祀る神殿や祭壇があった。そこで「そこには、サタンの王座がある」と、ベルガモンに住む天使に書き送れと命じられる。ベルガモンについてそう記されるのは、皇帝礼拝と関係がある。

「主の忠実な証人アンティパス (13節)」は、ローマ皇帝を「主にして神」と拝むように強要されても屈する事がなく、そのために殺されてしまった。しかし、そんな中でもベルガモンの教会は固く信仰にとどまり立ち続けていた。しかし、サタンは別の方法でさらにベルガモン教会を誘惑し続けていた。

「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムはイスラエルの子らの前に躓きとなるものを置くようにとバラクに教えた。(14節)」 バラクとバラムは民数記22章に登場する。バラムはイスラエルが約束の地に入る前、モアブの女性を送り、異教の神々を拝むように仕向け、不道徳な行いに誘った。その結果イスラエルに神の裁きが下った。

この時のベルガモンにも同じような誘惑があった。それは例えば「偶像に捧げられた肉を食べさせる」事であった。これは、異教の神々への礼拝や皇帝礼拝に伴う祭儀的な食事参加する事に繋がる行為であった。この町の宗教的な祭りに、他の人々と一緒になって参加する事への誘いであった。 ベルガモンの教会にはそれをいいのではないかという者もいた。ジェスチャーに過ぎないと。

これは私たちへの警告である。Uさんは子供会で祭りの参加を促され、宗教を理由に断った結果、なんだか付き合い辛くなったと言っていた。他の人々は神社を心から信じているわけでなく、それほど頑なにならなくてもと思うが、そうして戦時下のクリスチャンは引きずられていったのだろう。

しかし、この町で生き延びなければならぬ。ベルガモンの教会はずるずるとタガを緩めて行った。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ひと気ないオフィスの自販機 落下する水は誰かの伝言のよう 鈴木精良」


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ヨハネの黙示録  1章9~20節 [ヨハネの黙示録]

<わたしは、その方を見ると、その足元に倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな、わたしは最初の者にして最後の者、また生きているものである。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。17.18節)>

[
「ヨハネは、アジア州にあって労苦している7つの教会への励ましの言葉として、ヨハネの黙示録を記しました。7つの教会それぞれに神様の言葉を届けたい人、イエス様の証を聞いてもらいたい人がありました。イエス様を伝える事を通して、7つの教会の苦難と慰めを共にしたいと思ったのでした。」と、清藤牧師は書きだされる。

ヨハネ自身も「神の言葉とイエスの証のゆえに」パトモス島にいた。パトモスは、エフェソの南西90kmにあるエーゲ海の小島で、ローマ帝国に反逆する者の流刑地であり、ヨハネもその一人として獄中にあった。このヨハネは伝統的に「使徒ヨハネ」と考えられているが、定かではない。

「ある主の日の事、私は“霊”に満たされていたが・・・」と記される「主の日」とは、イエス・キリストが復活された週の初めの日曜日である。ユダヤ教では土曜日に礼拝を捧げているが、キリスト教では主の復活を記念して週の初めに礼拝を捧げ、その日を「主の日」と呼ぶ。獄にあったが、主の日を守り、礼拝を捧げるヨハネを神は聖霊で満たされた。

そのヨハネにラッパ(角笛)の響きが届いた。出エジプト19章にあるように、角笛の音は主のご臨在を告げるものであるとされている。その音はヨハネの背後から鳴り響いた。O牧師は「ヘブライ人は将来は背後にあるもの、目の前にあることは既に見る事のできる過去だと考えていたのです。だから、この時ヨハネは将来から、時を超越される神様から語りかけられたのです。」と話された。

そして「聖書の言葉は、過去に記された言葉でありますが、私たちは礼拝において、それを将来から今、語りかけて下さる方の言葉として聞くのです。」と付け加えられた。 難解だが耳を傾ける。

ヨハネはそこでみ言葉を聞く。アジア州の七つの教会にヨハネが見ている事を巻物にして書き送るようにと命じられる。そこで、彼は自分の考えでなく、霊に導かれ七つの教会に手紙を書き送る。続くヨハネの記述から、彼の後ろに立たれたのは主イエスである。O牧師は「ですから、彼は天へ上げられたのです」という事であった。

七つの燭台は「七つの教会」を、燭台は、世の光である教会、その真ん中に主イエスがおられた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「少しずつ老いも病いも進みおり今日は金柑の甘煮を作る 弟子丸直美」


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テモテへの手紙  3章14~16節 [テモテへの手紙]

<神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。信心の秘められた真理は確かに偉大です。 (15.16節)>

この手紙をパウロがテモテに送った理由が記される。それは、パウロがテモテのもとに行くのが遅くなっても、テモテが教会でどのように行動すべきかを知らせるためであった。パウロは使徒として、先輩としてそして同労者として、若いテモテが苦闘しているのを見て見過ごす事は出来なかった。

15節に「神の家」と訳されている語が、3章の4.5節に「家庭」と訳されるが、どちらかというと「家族」、それを構成するメンバー、そこに住んでいる人たちとなる。それで「神の家」となると、神によって教会に集められた者たちの群れ、共同体である。かつて神から遠く離れ、光を知らなかった者が、イエス・キリストを信じ一つとされ、神の国の民、神の家族とされた。それが教会である。

またパウロは、教会はただ神の家族というだけでなく、「生ける神の家族であり、真理の柱または土台です」と説く。「生ける神」とは「死んだ神」「死んだ偶像」に対してつかわれる言葉である。立派な建物の奥に鎮座している動かない偶像たちとは全く違う事を強調する。

テモテが今いるエフェソには偉大なアルテミス神殿があった。神殿は長さ115m、幅55m、高さ18m、117本の柱で支えられ、総大理石で造られていた。建設にはBC7世紀から200年かかった。そこにアルテミスの女神が祀られ、それは木でできていたが顔と手足の先以外は黄金と宝石で飾られていた。エフェソの町はこの神殿を中心に生活が営まれていた。

そのような町、人々の中にキリスト教会が建てられていたのだと思うとテモテの苦闘が偲ばれる。この国でのクリスチャン人口は1割ですと言って過ごしている我々を反省せずにはおれない。日本にも動かないまま国宝にまでされている神々があるが、誰もそれを不思議と思わない。しかし、パウロは「それはただの偶像だ」と言い、教会におられるのは生きた神、生きて働く神だと断言する。

そして「その教会は、真理の柱、土台だ」と言う。私たちの教会の礼拝出席者は20名程度、若者は少なく会堂は老朽化し、その財源も危うい。それでも「真理の柱」だと言われる。S牧師は「確かに目に見える教会は、あらゆる面で欠陥があり、私たちも不完全です。けれど、私たちはこの不完全な器の中に神の真理である福音を入れているのです。」とⅡコリント書4章7節を示された。

「私たちは、このような宝を、土の器に納めています。この並外れて偉大なものが神の力であって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。」

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「ほどけゆく虹をみてゐた ひとりぶん生きてるだけでこんなにさびしい 澤田広枝」

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エフェソの信徒への手紙  6章1~9節 [エフェソの信徒への手紙]

<奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。(5節)>

「奴隷と聞くと、鎖に繋がれ自由もなく、苛酷な労働を強いられている姿を思い浮かべるかもしれません。一方で、この時代の『奴隷』の語が意味するのは、贖われ、主人のものとされたという事です。」と、清藤牧師は書きだされる。

5章では、妻に「夫に仕えよ」と命じ、夫には「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」と命じていた。そこにあるのは、従属関係ではなく「与えられた関係の中で、互いに仕え合いなさい。」と命じられる。そして6章は「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しい事です。」で始まる。

無条件の服従である。その関係性は主人と奴隷の関係にも適用される。この時代、敗戦となると、領土と共に人々も労働力として敵に取り上げられた。奴隷とされた人々の中には、主人より優秀な人々もいたが、全て主人の所有物であった。「ギリシャやローマは、執事や書記、経済まで奴隷に任せ、主人たちは広場で哲学議論に耽っていたのでついには国が衰退したのよ」という声もある。

「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。(5.6.7節)」

パウロは「自由を求めよ」とは言わず、神が奴隷という身分を与えられたのであれば、与えられた身分のままに、何を主が望まれるのかを求めて生きなさい。それが諦めではない「積極的従属」なのだと話す。でも傍若無人な主人にも、やはり「主に仕えるように」なのかと思っていたら、K牧師は「主人が悪を命じた時には、『主に従う』という言葉を判断基準とするのです。」と、話された。

そしてパウロは「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのは止めなさい。あなた方も知っている通り、彼らにもあなた方にも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。(9節)」と話す。

この世の道徳は、目下の者にのみ服従を迫るが、聖書はそうでなく、奴隷も主人も「神の支配下にある者」として共に服従の命令下にある。キリストにあっては主人も奴隷もないのである。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「夕闇が庭のすみまで降りてきてはよ飯作れとわたしを急かす 伊東文」


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