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エフェソの信徒への手紙  5章1~14節 [エフェソの信徒への手紙]

<だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(7.8節)>

「パウロは自分で神様の栄光を輝かせようと努力した人でした。主の教会を迫害するほどまでに熱心でした。でもイエス様と出会って知りました。私が神様の栄光を輝かせるのではない。イエス様が神様の栄光で私を照らして下さると。」と、清藤牧師は書きだされる。

この世でキリスト者として生きるには、キリスト者としての召命をいつも確認しなければならない。「あなた方は神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(1節)」 神に倣うとは、罪人のために独り子イエスを献げて下さったようにという事である。自分を献げる、すなわち自分を捨てる。その時、他者に対する貪欲な言葉や、卑猥な言葉が出るはずはないのだとパウロは語る。

そして、「空しい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いの、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。(6節)」 また「光の子として歩みなさい。」と勧める。それは、右に行くのか左に行くのか迷った時、「キリストならどうされるか」を、生活の指針にすることである。

「全てのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされる者は皆、光となるのです(13.14節)」とパウロは語り、イザヤ書を紹介する。この言葉は初代教会の讃美歌、あるいは洗礼式で用いられたとされている。

「栄光と救いの到来」とタイトルが゙つけられる。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出て、主の栄光があなたの上に現われる。(1.2節)」 ウクライナやガザの戦禍、揺るぎ止まない地震、不実な為政者たち、明るい話題はどこにもない今、それでも光が現れるとパウロは説く。

今日の祈祷会、教会の桜が満開になりみんなウキウキしていたら、M牧師が詩を紹介された。 <ラインホルド・ニーバの祈り> 「神が置いて下さった所で咲きなさい。仕方ないとあきらめてではなく、咲くのです。咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。咲くということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだということを示して生きる事なのです。神がここに置いて下さった。それは素晴らしい事であり、ありがたい事だと、あなたのすべてが、語っている事なのです。置かれている所で精一杯咲くとそれがいつしか花を美しくするのです。神が置いて下さった所で咲きなさい」。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「同じ日に生まれた孫のおかげなり子らはついでに我を祝いぬ 村崎京」


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