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エフェソの信徒への手紙  4章17~32節 [エフェソの信徒への手紙]

<キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にある通りに学んだはずです。(21節)>

「パウロはこの世の模範になる立派な人になりなさいと勧めたわけではありません。放縦な生活をすること、ふしだらな行いにふけること、盗みを犯す事、悪口を言うのはやめようなど道徳を教えているのではありません。それよりもイエスに結ばれて、イエスの命の内にあるあなたであることを生きてほしいと願いました。」と、清藤牧師は書きだされる。

トルコには、今もローマ帝国のエフェソ遺跡がある。そこから、海は地殻変動により今はやや遠くなってしまっているが、昔は港町として繁栄した豊かな都市であった事がうかがえる。そのためか、エフェソの教会にはギリシャ・ローマ的な考え方を持つ異邦人が多くいた。彼らの中には自分を神とし、その利益のために教会を利用する者がいた。そのため、エフェソの教会は常に争いが絶えなかった。

主の死と復活によって、私たちの罪が赦され、新しい命が与えられ、もう以前のように放縦に生きる事はできない者とされている。神が私たちを救われたのは私たちを通して神の恵みを伝えるためであり、個人の幸福や救いを越えた出来事として神に召されているとパウロは強く説いてゆく。

K牧師は「キリスト者は罪を赦された罪人で、罪人である現実は変わらないのです。けれども、私たちがキリストを心の中に迎え入れ、キリストの愛に触れる事を通して、私たちは次第に聖化されていきます。キリストを知った者の生き方の基本は隣人と共にある生活です。『だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに体の一部なのです(25節)』」と話された。

ヤコブ書で「誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しない」と警告されている。怒りいら立ちが人を罪に導く。「怒るのに遅い生活を私たちがすれば、他者との不和が生じてもやがて解消するのです。それでも不和があるとすれば、それは私たちがみ言葉を真剣に生きていないからではないでしょうか。」とK牧師は戒められる。

「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神があなた方を赦して下さったように、赦しあいなさい。(32節)」 この世から遠ざかるのではなく、世の中で「地の塩」として生きていくことが求められる。世において「見ざる、聞かざる、言わざる」が知恵とされているが、「不正や悪を見逃さず、それで損をするのであれば、損を受けよ。神は見ておられる。」とパウロは言葉を続けてゆく。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「しろしろと絵本の中のやうな蕪両手にささげられ隣より来る 今井早苗」


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