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ヨハネの黙示録  3章14~22節 [ヨハネの黙示録]

<見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。誰かわたしの声を聞いて戸を開けるならば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう。(20節)>

「ラオディキアの教会は、熱くもなく冷たくもなく、なまぬるい信仰だと言われます。富や名誉などこの世的な幸せや満足で、自分の本当の惨めな姿も神様の憐れみも解らなくなっていると言われてしまいました。でもそれはダメなものと烙印を押されたのではありません。イエス様は彼らの戸口に立って、戸をたたき続けておられます。」と、清藤牧師は書きだされる。

ラオディキアの町は金融業、絨毯、羊毛などの産業が盛んであった。また、ローマ帝国で使われる目薬を作っていた。AD60年大地震に遭遇したが、住民はローマからの援助なしで再建した。「アーメンである方」というのは、主イエスそのもの、その通りであると同意できる存在である方だと言う事である。

その方が次のように言われる。「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、生ぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている。(15.16節)」

ラオディキアの町は非常に繁栄した町であり、配水管が通っていた。しかし、源泉から10k近く離れていたので、水は生ぬるくなって、不味いとされていた。この水のように町も同様の状態だと指摘される。ラオディキアの教会への文書には褒められる言葉がない、その理由は、伝道の接点であるみ言葉に対して教会から何の反応も帰って来ない「生ぬるさ」にあった。

K牧師は「主によって罪が示される時、自らを責めますが、それを主にあって悲しめばいいのです。罪の自覚が大事なのです。ところが、心がするりとみ言葉を受け流し、何の反応もせず罪を自覚していない時がないでしょうか。ラオディキアの教会はそのような状態だったのでしょう」と話された。

ラオディキアの教会を「自分が富んでいる。乏しいものはない。自分が惨めで、憐れで、貧しくて、盲目で裸である事を知らない。」と主は指摘される。自分の生活の豊かさを主にあって感謝し大事にすることは大切だが、ここでは神がいなくとも、キリストがいなくとも、別に支障はないとする心が指摘される。富んでいる者だとする私を、主は「惨めで憐れな者」だと評価を下される。

人と比べて「自分はそんなに悪くない」と思っているが、「私たちが比較すべき対象は神さまです。そこに映し出される自分の姿が本当の私の姿なのです。」とK牧師は話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「連弾でぼくらの肘があたるとき譜面にはない音楽になる 姉川司」


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