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ヨハネの黙示録  1章9~20節 [ヨハネの黙示録]

<わたしは、その方を見ると、その足元に倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな、わたしは最初の者にして最後の者、また生きているものである。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。17.18節)>

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「ヨハネは、アジア州にあって労苦している7つの教会への励ましの言葉として、ヨハネの黙示録を記しました。7つの教会それぞれに神様の言葉を届けたい人、イエス様の証を聞いてもらいたい人がありました。イエス様を伝える事を通して、7つの教会の苦難と慰めを共にしたいと思ったのでした。」と、清藤牧師は書きだされる。

ヨハネ自身も「神の言葉とイエスの証のゆえに」パトモス島にいた。パトモスは、エフェソの南西90kmにあるエーゲ海の小島で、ローマ帝国に反逆する者の流刑地であり、ヨハネもその一人として獄中にあった。このヨハネは伝統的に「使徒ヨハネ」と考えられているが、定かではない。

「ある主の日の事、私は“霊”に満たされていたが・・・」と記される「主の日」とは、イエス・キリストが復活された週の初めの日曜日である。ユダヤ教では土曜日に礼拝を捧げているが、キリスト教では主の復活を記念して週の初めに礼拝を捧げ、その日を「主の日」と呼ぶ。獄にあったが、主の日を守り、礼拝を捧げるヨハネを神は聖霊で満たされた。

そのヨハネにラッパ(角笛)の響きが届いた。出エジプト19章にあるように、角笛の音は主のご臨在を告げるものであるとされている。その音はヨハネの背後から鳴り響いた。O牧師は「ヘブライ人は将来は背後にあるもの、目の前にあることは既に見る事のできる過去だと考えていたのです。だから、この時ヨハネは将来から、時を超越される神様から語りかけられたのです。」と話された。

そして「聖書の言葉は、過去に記された言葉でありますが、私たちは礼拝において、それを将来から今、語りかけて下さる方の言葉として聞くのです。」と付け加えられた。 難解だが耳を傾ける。

ヨハネはそこでみ言葉を聞く。アジア州の七つの教会にヨハネが見ている事を巻物にして書き送るようにと命じられる。そこで、彼は自分の考えでなく、霊に導かれ七つの教会に手紙を書き送る。続くヨハネの記述から、彼の後ろに立たれたのは主イエスである。O牧師は「ですから、彼は天へ上げられたのです」という事であった。

七つの燭台は「七つの教会」を、燭台は、世の光である教会、その真ん中に主イエスがおられた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「少しずつ老いも病いも進みおり今日は金柑の甘煮を作る 弟子丸直美」


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