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ヨハネによる福音書 20章11~23節 [ヨハネによる福音書]

<イエスが「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(16節)>

「マグダラのマリアは泣き続けていました。『私の主』と言えるくらい彼女を支えてきたイエスさまが取り去られてしまったという思いでいっぱいだったからです。」と、信徒の友4月号「日毎の糧」担当、東京松沢教会清藤淳牧師は書きだされる。

昨日はルカ書で、今日はヨハネ書なので多少食い違いがあるが、婦人たちは墓がからであることをペトロたちに報告すると、再び彼らの後について墓に戻った。泣いて墓を覗いているマリアは「婦人よ、なぜ泣いているのか」と天使たちから声をかけられ、「私の主は取り去られました」と言った。そういいながら後ろを振り向くと「イエスの立っておられるのが見えた」。

主イエスは「なぜ泣いているのか、誰を捜しているのか」とマリアに言われたが、彼女はそれが主イエスとは気づかず園丁だと思い「あなた方が運び去ったのなら、どこに置いたのか教えてください。」と言った。そこで「イエスが『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。(16節)」

主イエスが改めて「マリア」と呼びかけられると、初めてマリアは相手が主であることに気付いた。それは「マリア」という固有の名前をもって、特別に呼ばれたからであった。先日説教で聞いた徴税人ザアカイも主は名前を言って呼びかけられたので不思議だったが、主は確かに一人一人の名をもって呼びかけて下さると学んだ。主との出会いは一対一、名をもって呼ばれて個別に出会って下さる。

『ラボニ』と言って縋り付こうとしたマリアに主は、まだ父のもとに昇っていないのだからと、マリアを拒まれた。十字架による罪の贖いの業を終えられ、これから天に昇り、父の栄光を受けられる主イエスは、「ナザレの人」と呼ばれていたかつての主イエスとは違うのですとK牧師は話された。栄光を受けられる主イエスとの出会いは、出会った者にとっては新しい日常へと招かれる事なのだ。

主はマリアに「私の父であり、あなた方の父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方のところへ私は行く」と、私の兄弟たちに告げるようにと言われた。「新しい日常」とは主によって新しい使命を与えられるという事であった。これまでの日々の繰り返しではなく、「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」そう言って、新しく生きる彼らに息を吹きかけられた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「白菜をざくざく笊に盛り上げて満足そうな妻の横顔 千名民時」


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