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エフェソの信徒への手紙  5章1~14節 [エフェソの信徒への手紙]

<キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい (21節)>

「神様への感謝に生きる事は一人ではできません。一緒に神様に祈り、願い、喜ぶ者を必要としていることをパウロは知っています。かつて自分だけが神様に従っていると思っていた時には、周りの者を見下す者であったし、孤独でした。でも、主イエスを信じた時、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合う喜びを知らされたパウロです。」と、清藤牧師は書きだされる。

「パウロは結婚を信仰の問題として捉えている。」「この箇所は夫と妻の従属関係を規定するのではない」と、S牧師は話される。しかし「妻たちよ、主イエスに仕えるように、自分の夫に仕えなさい(2節)」などを読むと、どうしてもひっかかってしまう。

けれども、これは2千年前の、女性を人の数には入れなかった時代の言葉だと理解しなければならない。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい(25節)」という言葉などはその時代に合って斬新だったのかもしれない。女性は無条件に夫に仕え、夫の庇護のもとにあってこその存在だとされていたのだから。

しかし、パウロは夫に、妻に「教会が神に仕えるように、愛しなさい」と勧める。主イエス・キリストが教会の頭であり、教会はその体であるように、夫は教会の頭である。妻はその体であり、信仰の行為として夫に仕えなさいとパウロは勧める。そして夫には自分の存在の一部として、妻を愛するようにと。その昔「夫に従う」という教えはあったが、夫が隷属物である「妻を愛せ」という教えはなかった。

妻が仕事との両立に悩んだ結果、夫に二人の子供を託して離婚した。知人は父子家庭となって右往左往の状態が続いていたが、幸い、スーパーにはあらゆるものがあり、やっと軌道に乗って来たと言っていた。2千年前は男女の役割分担があり、自然に主従状態になったのだろうが。現代は夫でも子育てするし、妻も収入を得ている。その中でこの箇所を男子牧師が話すと割り切れない。

「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。(31.32.33節)」

S牧師は「離婚や不貞は、自分の信仰をも否定する行為だと思いますが、私たちはそれを知っていても、パートナーを裏切り離婚を選択してしまうのです。それでも、結婚とは信仰の決断であることを知らなければならないのです。」と話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「軽トラの荷台のへりに腰かけて植木屋は春のべんとうを食む 垣野俊一郎」

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