SSブログ

エフェソの信徒への手紙  4章1~16節 [エフェソの信徒への手紙]

<そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。(11節)>

「パウロは教会が誰か一人によって形作られるとは言いませんでした。そこに集う人それぞれに賜物があり、役割があることを述べています。皆さんが教会にあって様々な奉仕を行うようにです。」と、清藤牧師は書きだされる。

「主に結ばれて囚人となっている私はあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きに相応しく歩み(1節)」と4章は始まる。この時パウロはローマ皇帝の法廷で裁かれるため牢獄の身であった。しかし、彼はそれを主イエス・キリストによって縛られているとしていた。そして、エフェソの信徒たちも、神の招き、神に呼び出された者として、神の祝福を感謝して歩むようにと勧める。

繰り返し罪を重ね死ぬしかなかった私たちが、主の復活と共に蘇った。私たちの罪を主が担って下さり新しい命に歩むことが許され、キリストに結ばれる平安が与えられている。K牧師は「神様が与えて下さった恵みに対する応答は、私たち自身がその恵みの深さと愛を他者に対して分かち合う事によって可能となります。神の恵みを受けながら、他者を拒むのは間違いです』と話された。

「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。(2節)」 一致団結して進んで行こうというものではなく、もう神の恵みによって一致団結されている。問題は、私たちの側でその一致を取り壊す事もできるという事です。神の愛ではなく自分愛を優先して壊してしまうのです。とK牧師は説かれる。

「柔和」とは、人を裁かず、神の裁きに任せるという事で、「寛容」は愛をもって忍耐する。それは悪を是認する事ではなく、私たちの内にキリストがおられる事を思って愛をもって忍ぶという事である。頭では分かっていても、なかなか実行出来ない事の一つだ。

K牧師は「霊的な成長」に三つの段階があると話された。一つは「自分」、自分が気になり、いろいろ悩んでしまう。その次には「神」を仰ぐ、神が何を行い、言われているのかと。最後に「他者」、神が自分を通して他者にどのように働かれるのか、絶えず意識する。自分が頂いている神の恵みが、他者へ働きかける恵みへと流れていく。そして、神にあって互いに繋がっている事を知る。

「一つ」と言う言葉が続く。イエスを神の子キリストと信じた者は皆「一つ」の体の中にいる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「少しづつ水の入りゆく田のすみの種漬け花に降るほそき雨 村上春枝」

コメント(0) 
共通テーマ: