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マルコによる福音書  10章1~12節 [マルコによる福音書]

<二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。(8節)>

「聖書にはよく『知る』という言葉が記されます。その意味は、単に認知、理解するという事ではありません。夫婦のように『別々でなく、一体』ということです。」と、中道牧師は書きだされる。

主イエスの行く先々でみ言葉を求めて人々はその周りに集まった。ファリサイ派の人々は近寄って来て「夫が妻を離縁する事は、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。彼らは人々に取り囲まれている主イエスを、ここで言い負かそうと企んだ。主イエスは「モーセはあなた達に何と命じたか」と、反対に彼らに問われた。彼らは申命記24章の「離縁状を書けば許される」を示した。

申命記24章には「妻が何か恥ずべき事を・・・」という言葉がある。この時代の律法学者たちはその意味を巡って議論し、男性にとって都合の良いように解釈していた。例えば「それまでの妻よりも自分に相応しい女性と出会った場合には離縁状を渡してもよい」とするものもいた。

主イエスは「誰であっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、誰でも離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(マタイ書5章)」と話されている。離婚を正当化すること自体を非難されている。しかしファリサイ派の人々に、この時は「あなたがたの心が頑固なのでこのような掟をモーセは書いたのだ(5節)」と、この言葉の原点に立ち返るように言われた。

この時代、モーセの律法をもとに日常生活を規定する具体的な細かい「言い伝え」が作られていた。それらは皮肉にも人々の生活を縛り、また守れない人を排除する基準になっていた。主イエスはそれに対し、この律法が与えられた原点である「神の憐れみ」に人々を立ち帰らせようとされた。

「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。(6節)」 神は人をご自身の形として創造されたと創世記は記す。そして「人がひとりでいるのはよくない。相応しい助け手を造ろう」と言われ、女を人のあばら骨から造られた。二人は「神の形」に創造され、互いが自分と同じ肉を持つかけがえのないパートナーとなった。

「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。」 全ての夫婦関係はこの原点に立ち返る。「聖書は夫婦関係を親子関係に優先します。人の始まりは一組の夫婦だったからです。」とO牧師は話された。

クリスチャンの友人は創世記のこの話を否定していた。確かに「あばら骨」は自分も引っかかる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「つかの間のかたまりにして家族なり ドレッシングの瓶行き来して 高橋ひろ子」


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