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マルコによる福音書 11節1~11節 [マルコによる福音書]

<二人が子ロバを連れてイエスのところに戻って来て、その家に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(7節)>

「主イエスはエルサレムに入城される時に『子ロバ』をお用いになられました。これはゼカリヤ書9章9節の御言葉の成就です。『ロバ』は、柔和を表します。主イエスが私たちのために、重荷を共に負ってくださり、十字架の上で私たち罪人の身代わりとなってくださる。その柔和でへりくだった主、平和の君に相応しいものです」と、横井牧師は書きだされる。

主イエスはロバの子に乗って城壁で囲まれたエルサレムに入城される。ロバについて旧約では価値の低いものと考えていた。律法の規定によれば全ての家畜の初子は神に献げなければならなかったが、ロバだけは例外で、献げ物に価しないとされ、代わりに小羊を献げることになっていた。ロバの子は神に献げる事のできない、神が良しとされないもの、価値のないものとされていた。

ロバと対照的な馬は、軍事力の象徴と捉えられ、戦勝者は馬に乗って入城していた。そのような中、主イエスは馬でなく、ロバの子をエルサレム入城に当たって用いられた。エルサレム入城は政治的なメシア、キリストを求め願い、歓喜する民衆の姿が記されているが、しかし主イエスはそのような願いに真っ直ぐに応える事をなさらなかった。

K牧師は「生き方を、軍隊によって象徴される権力や、武力によって整えられることが、人間の社会にとって相応しくないという判断が、この箇所を通して記されます。ここは、武力の滑稽さを笑い飛ばすような皮肉をロバに乗ることで演じて見せた主イエスのパフォーマンスなのです。権力を相対化し、やがては無化へと至らせる民衆の、知恵の復権こそを主は求められるのです。」と話された。

現在日本のキリスト者はこの世の知恵に流され、現状の武力、権力を承認し、否を言う事が出来ていないのではないか。キリスト者の社会的責任は重いとK牧師は話される。神に対する応答としての奉仕である礼拝は、同時に人間に対する奉仕としての倫理である。どのようにキリストを証していくのかの内容が絶えず問われ続けていると話された。

「主イエスは神の救いを実現するために罪、不義、悪に対して戦われます。主イエスは苦しみを受けるためにエルサレムに入城されます。嘲られ、鞭打たれ、殺されるために来られました。私たち罪人を救うためです。私たちも、子ロバのように、主と共に歩みましょう。」と、横井牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「離れれば無視するなと言い近づけばウザイという子が過去話し出す 澁谷義人」


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