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マルコによる福音書 10節46~52節 [マルコによる福音書]

<イエスは、「何をしてほしいのか」といわれた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。(51節)>

「盲人のバルティマイは、エルサレムに向かって歩んでいく主イエスに向かって『ダビデの子イエスよ、私をあわれんでください』と叫び続けました。彼の心からの叫びは主イエスに届きます。主イエスは足を止め、彼を呼ばれます。そして『何をしてほしいのか』と尋ねられました。」と、3月の「信徒の友、日毎の糧」担当の長野教会横井伸夫牧師は書きだされる。

主イエスと弟子たちはヨルダン川沿い南下し、エリコに着いた。エリコはエルサレムに向かっていく宿場町のような意味もあった。当時のエリコには旧市街と新市街があり、その二つの街を結ぶ通りは人通りも多いところから、物乞いをする人も多くいた。

盲人バルティマイもその一人だった。彼はナゼレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい(47節)」と言った。S牧師は「彼が『ダビデの子イエス』と呼ぶのは不思議です。『ナザレのイエス』という呼び名は、主の卑しい出生を表す表現として人々が使っていた。ところが彼は、主を『ダビデの子』と呼びます、彼はこの方こそイスラエルの救い主だと信じていたのです。」と説かれた。

「憐れんでください」という叫びは、ただ自分の悲劇的な状況に憐れみを注いでほしいという謙遜な祈りであった。彼は自分の目が見えるようになること以前に神の愛の眼差し自体を求めていた。それは周りの人々から「お前が神の呪いを受けた結果なのだ」と、忌み嫌われ、自分自身も神に見捨てられたという絶望の中にいたからであった。彼はただ神の憐れみの眼差しを求めていた。

叫び続ける彼を人々が黙らせようとしたが、ますます叫び続けた。この前の32節に主イエスは三度自分の死と復活を予告されている。弟子たちはそれを十分に理解しなかったものの、このエルサレムへの道は苦難と危険の道であることは分かっていた。バルティマイに関わる時ではなかった。

主イエスは立ち止まられ、彼を呼ぶように言われた。喜びに躍り上がってやって来た彼に「何をしてほしいのか」と問われ、彼が目が見えるようになりたいと言うと、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。(52節)」彼はすぐに見えるようになり、なお道を進まれる主イエスの後に従った。

S牧師は「信仰という言葉は、真実とも訳します。神の真実に対する私たちの応答です。揺るぎない確信などという意味ではなく、神の憐れみに『すがる』心の動きこそ信仰です」と言われた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「わが人生おおかた尽きし日々にしてわれは聴くなり軍備の巨大化 西村美智子」


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