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マルコによる福音書 11節12~19節 [マルコによる福音書]

<そして人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか『私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」(17節)>

「この箇所の主イエスは、私たちが描く主イエスの姿とはずいぶん違います。主イエスは強い嘆きと憤りをあらわされます。」と、横井牧師は書きだされる。

エルサレムに入城された主イエスは辺りを見回られた後ベタニアに戻られ、翌日再びエルサレムに向かわれる。その道で、空腹を覚えられていた主は葉の繁ったいちじくの木に近寄り、実をさがされたが実のなる季節ではなかった。すると主は「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように(14節)」と言われた。

それから、エルサレム神殿の境内に入られると、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返された(16節)」。柔和だと思っていた主イエスから想像のできない乱暴な行動である。そして「祈りの家と呼ばれるべき、神殿を強盗の巣にしてしまった」といわれる。

しかし、この事は先ほどの実のならないいちじくの木と繋がり、主がエルサレムにおいでになって、何より最初にしなければならない事、その意味で主が一番大事にされた事が、この二つの出来事に象徴されているのである。

主はひたすらエルサレムを目指されていた。それは、十字架につけられ、三日目に復活するためで あると教えられている。「しかし、死刑が必要ならすぐに裁判官のもとに行くべきなのです。ところが主はそうなさらなかった。エルサレムに上って来られたのは、堕落した神殿を清めるためであったと思うのです。神殿は神殿の名に値しなくなっていたのです。」と、O牧師は話された。

「空腹を覚えられた(12節)」という言葉から、前日、エルサレム入城を果たされ辺りの様子をご覧になった結果、主は激しい飢えを感じられたのです。人々の歓呼の声、神殿に向かう人々の賑わい、商売人の売り声、全てが神から遠く離れたものであることを思われました。それは葉ばかりが繁って実のならないいちじくの木でありました。私たちの教会はどうでしょうかと、O牧師は続けられた。

お正月のテレビは神社参拝する大勢の「善男善女」を映していた。この後起こる地震の事を知らず。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「写真でのみ顔全体を知っている生徒が話す恋人のこと 川上まなみ」


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