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ルカによる福音書 1章46~56節 [ルカによる福音書]

<その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。(50節) >

「マリアは確信をもって大胆に賛美をささげます。神様が憐れみの中で、自分を忘れていなかった!自分に与えられた豊かな憐れみを思って歓喜するマリアは、同時にイスラエルの将来にも目を向けます。」と、榮牧師は書き出される。

「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜び称えます。」と、マリアは言った。自分もクリスチャンの友に便りを書く時、「主のみ名を讃美します」と書き出す。「あがめる」と言うのは、相手を自分より大きくすることであるが、神を大きくするために必要以上に自分を卑下してあがめる事ではない。必要以上の卑下はむしろ神を冒涜する傲慢になるとS牧師は警告された。

マリアの受胎は、神の霊によって宿ったと聖書は証言するが、この時代、婚約は結婚同様であり、律法に従うと夫(ヨセフ)を知らず妊娠した者は、姦通罪が適用され石打の刑にあたる事であった。マリアは罪深い「卑しいはしため」とみなされる。しかし神はあえて彼女にその道を歩ませられる。マリアは 主を称え「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さった」と賛美した。

マリアは自らに起こった神のみ業を、思い巡らし、「み言葉通りになりますように」と神への姿勢を貫き、この信仰において受け入れてゆく。「マリアの貧しい身に神の意志が働いたのです。神の子が宮殿に住む王の子として産まれるのではないのです。神は貧しさ、弱さ、苦しみ、差別など困難な中にある者と、共におられるのです。」とK牧師は話された。

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。(51~53節)」

K牧師は「主イエス・キリストのご降誕によって糾される世界観、主が私たちの世界に肉をまとい来られました。そうして、人間の常識や基準、価値観を根元から覆されるのです。」と、話された。

今年は24日が日曜日、「メリー・クリスマス」教会ではそう挨拶しあう。でも本当に何が嬉しいのか実感がなかった。しかし、受洗から40年、顧みると、主イエスのみ言葉、頭(カシラ)となって下さる教会を通して、自分を縛っていた様々なものから解放されている事に遅まきながら気付いてきた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「大根の漬かり具合の上々に樽よりひとつ夕餉の卓へ 加藤和子」



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