SSブログ

ルカによる福音書 20章9~18節 [ルカによる福音書]

<そこで、ぶどう園の主人は言った。「どうしようか。私の愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」 (13節) >

「農園の主人が派遣する僕たちは、農夫たちの袋叩きにあって追い返されます。反抗的な農夫たちの姿は、主人なる神様を拒み、預言者たちを拒んできたユダヤ人の姿を暗示します。」と、榮牧師は書き出される。

ある日、主イエスがいつものように神殿で「民衆に教え、福音を告げ知らせておられると(1節)」、ユダヤの宗教指導者が近づき「何の権威でこのような事をしているのか(2節)」と言った。けれど「ヨハネの洗礼はどこから来たのか」と、主イエスが問われると、彼らは「分からない」と答えた。そこで主イエスは「それなら、何の権威でこのような事をするのか、わたしも言うまい」と答えられた。

御自分が「天からの権威」をもって、地上に来られたことを暗示された主イエスは「ぶどう園のたとえ」を通して彼らの罪を指摘され、神の救いのご計画を語られる。

「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちの所に送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋叩きにして、何も持たせないで追い返した。(9.10節)」次に送った僕も、その次の僕も追い返された。

そこで主人は、「この子なら敬ってくれるだろう。」と愛する息子を送った。しかしその結果、息子はぶどう園の外に放りだされ殺されてしまう。農夫たちは、後継ぎがいなくなればぶどう園は自分たちのものになると思っていた。息子の死を知った主人は、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるだろうと、語られた。その話に人々は「そんなことがあってはなりません」と言った。

このたとえの主人は神さま、農夫たちは宗教指導者たち、僕たちは預言者たち、愛する息子は主イエスが表される。イスラエルにやがて救い主を送られると、神は繰り返し預言者を通して彼らに伝え、悔い改めて神に立ち返るように呼び掛けておられた。けれど、彼らは預言者を無視し、侮蔑し、迫害し、殺害した。ついに神は、その愛する独り子主イエスを遣わされた。

「主イエスは、これからご自分に起こる事を予言するかのように語られた。このたとえを通して神不在の信仰とあえて対峙し、指摘されます。神不在の信仰は宗教的徳や自負にとどまり、自他を傷つけるからです。主の愛に砕かれる信仰にこそ、福音があるのです。」と、榮牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「どんな音もどんな会話もお互いに聞かないふりで過ごす病棟 山西直子」


コメント(0) 
共通テーマ: