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ヨハネによる福音書  1章1~18節 [ヨハネによる福音書]

<言(コトバ)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。(14節)>

待降節第3主日礼拝。「ヨハネの福音書は、90年頃主が復活され、弟子たちに聖霊が降ってから、60年を経て記されました。福音はユダヤ全土に宣べ伝えられ、3福音書はすでに教会の中で読み継がれていました。使徒の多くは殉教し、彼も90歳。福音宣教が広まり、教会も多く建て上げられ、かなり落ち着きを持ち始めた時、彼はこの書を書きました。」と、K牧師は話し出された。

主イエスが誰であるのか、その本質を3福音書には記されていないとヨハネは感じていた。それにはギリシャ語の「ロゴス」を用いて主イエスを描くのが適していると判断した。ヨハネ書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と始まる。主イエスは神の言であり、神ご自身である。宗教家でもなく、預言者でもない、神そのものであるから全く信頼に値するのであると記す。

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。(3節)」は、創世記1章「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった。」に通じている。主イエスは水をぶどう酒に変え、「ラザロよ、出て来なさい」と大声で叫び言葉によって彼を蘇らせた。主イエスは創造主である神にしか出来ない奇跡を次々と行われた。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(4.5節)」 K牧師は「全てのものを造られた神は、人の命も造られました。人は単に肉体が生きる、また心豊かにというだけでなく、霊的に自分が生きている意味を知って生きるために造られています。でも、それは神に繋がる事によってはじめて可能なのです」と話された。

人々は主イエスを認める事が出来ず、この光を消そうとした。宗教指導者と、彼らによって扇動された人々は主イエスを十字架につけて殺した。彼らはこれで光を消す事が出来たと思ったが、3日目に主イエスは復活された。光を消すどころか、光はますます輝くようになった。

2千年前の人々は、神の存在を信じながらも、宗教指導者の説く神に翻弄され、律法を守り切れない自分の罪を嘆き、人を裁いてしまう状態で暗闇を歩いていた。そのような世に主イエスは、馬小屋で生まれて、飼い葉おけで安らかに眠っておられた。クリスマスの喜びを、全ての人に伝えたい。

ガザにも、イスラエルの国にも、戦場のメリークリスマスはない。彼らは私たちと同じ主なる神を信じる者であるが、主イエスを知らない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「駅前の小さなそば屋はおばちゃんがおばあちゃんになりどんぶり運ぶ 野口一海」


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