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エフェソの信徒への手紙  4章1~16節 [エフェソの信徒への手紙]

<キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。 (16節)>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『教会を造る』」を学ぶ。今日はその第1回目<「Ⅰ教会の土台 教会の本質、教会の共同体としての自覚と絆の回復を。「喜びをもって主に仕え」と題された、日本ナザレン教団 小山教会石田学牧師の記事を読んだ。

最初に、教会から喜びが失われている現実を警告される。「教会は数か質か、教勢か世に対する働きかといった二社択一的な議論を耳にする度に、奇異な思いを抱かせられます。わたし自身の体験が、この二つを分けて考えること、まして対立的な仕方で対比することの不自然さを証しているからです。」と記述される。

私たちの教会もクリスマスになるとバザーをしていた。自分が教会員になった頃は教会の前に列ができるほど盛況だった。が、やがて売る事、それによって得られる収入に、やりがいを置くようになっていった。教会らしからぬもめ事もあり、神が求めておられる事から遠のいた事に気づき取り止めた。

教会から喜びが失われ、牧師も信徒も教会の前途を案じ、思い通りの伝道ができず、落胆し、教会財政の逼迫に頭を痛める現状である。「その結果、本来なら教会の本質的要素とも言うべき喜びが、教会の中からも個人の信仰生活からも次第に失われてきてしまっている。」と、指摘される。

次に「教会が共同体であるという事」の自覚を促される。教会員個々の信仰が大事にされ、世を離れ一人になってでも自分の信仰を守るという決意が信仰生活の基本とされ、現状がそこに留まったままで、それによって教会が共同体であることの自覚が欠如したままであると記述される。

自分は、日曜ごとに礼拝を守り、3時間ほどを教会の兄弟姉妹と過ごしているが、石田牧師によるとそれでは一週間168時間のうちの0.6%しか共同体と過ごしていない事になる。そのような状況で教会が共同体であることを意識し、体験できるのでしょうか。共同体の回復なしには、日本の教会はいっそう行き詰って行くでしょうと記される。

「難しいなぁ」と思ってしまう。石田牧師は「皆ができる努力をするのです。信徒はそれぞれ意識して礼拝を喜ぼうと自ら整え・・・」と言われる。「意識して喜ぶ事」。これならできるかもしれない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「もう何もわからなくなりし母なのに『主よ』と言いしと病室の人は 石井久美子」


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