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ローマの信徒への手紙  3章21~26節 [ローマの信徒への手紙]

<ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわちイエス・キリストを信じる事により、信じるものすべてに与えられる神の義です。そこには、何の差別もありません。(21~23節)>

昨日の礼拝から「待降節」に入る。自分は数十年前のクリスマスにキリスト教も、主イエスについても良く分からないまま受洗を申し出た。S牧師はそれをよくご存じの上で洗礼準備会は「信仰告白」を教材とされた。その後、長老会で出自や職業、出身校など問われる事なく洗礼を承認されキリスト教徒となった。ネットで読んだだけだけど、ユダヤ人になるための条件とは大違いである。

パウロは生粋のユダヤ人であったが、復活された主イエスに出会い「律法とは関係なく」と言えるまでのキリスト教徒となった。神の義が示され、神がその義を私たちのためにすべて用意されたのだとパウロは説いた。そして義による裁きも、すべて行って下さり、それを私たちは贈り物として受け入れるようにして下さった。その事を信じる事を通して神は私たちを「義」と見なして下さるのだと。

律法を破るとユダヤ人社会から追放されるとか、病気になったのは先祖が律法を犯す罪をしたせいだとか、とにかくイスラエルの多くの民は平均台を歩くようにびくびくと律法を守り、破った者を裁いていた。しかし、主イエスが世に与えられ、人々は義人を装う必要から解放された。神の愛を説かれる主イエスの恵みのみ言葉に誰もが救われた。

「み言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行う事ができる。(申命記30;14)」 4000年も前の御言葉だけど、今も生きて関わって下さる神を実感できる。

ユダヤの人々は、自分の罪を告白して動物を屠り、その血が流されるのを見て、罪から自分を救って下さる神を信じていた。その屠られた動物の姿は十字架の主イエスである。私たちの罪を背負って、罪を帳消しにする為、主イエスは血を流され陰府に下られた。そして三日目に復活して下さった。弟子たちはその福音を宣べ伝えるために使徒となって宣教にでかけていった。

誰もが罪を持ち、神の前には進めない。けれど、主イエスが執り成し続けて下さるので、神からの一方的な恵みに与ることができている。恵みとは受けるに値しないものを受ける事である。そして「義と認めて下さる」とは、「罪を一度も犯したことがないように見なされる」ということである。神が一方的に「義」と認められるのは、「主の十字架の贖いが土台となっています」とK牧師は話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「抑留の映画観る間もミサイルは撃ち合ひ止まず今年も暮るる 西山千鶴子」


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