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ルカによる福音書 2章25~35節  [ルカによる福音書]

<これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です。(31~32節)」>

「メシアに会うまで死なないとお告げを受けていた老シメオンは、赤ちゃんイエス様を見て神様を讃えます。霊によって赤ちゃんイエス様を見るシメオンは、もう思い残す事はないかのごとく、自分が『安らかに』去ることを喜びます。」と、榮牧師は書きだされる。

ヨセフとマリアが、律法に従って御子イエスを主に献げるため、エルサレムにやって来た。「その時、エルサレムにシメオンという人がいた。」 シメオンのことは、預言者、祭司とは記されず、彼が特別な地位や身分を持つ人とも記されていない。

彼はエルサレムでごく普通に暮らす人物で、「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わされるメシアに会うまで決して死なない、とのお告げを受けていた(25節)」と、ルカは記す。シメオンは、神さまから「メシアに会うまでは死なない」と告げられ、その神の約束をひたすら信じて待ち望み、主イエスに出会えたのである。

彼が聖霊に導かれて神殿に入って行くと、ヨセフとマリアが幼子主イエスを抱いて神殿に入って来た。シメオンは幼子イエスを胸に抱き神を賛美した。

「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。(29~30節)」 シメオンは確かに自分の両目で胸に抱く幼子イエスを見ているが、彼は目に見える幼子イエスを見て、目に見えない神の「救いを見た」と言った。彼は見えない神の救いを信じる信仰によって「安らかに去る」のである。

「『安らかに去る』とは、『平和のうちに』という事でしょうか。ここで言う『平和』は、人の力によって作り出すものでなく、主イエス・キリストによる平和であります。主イエスの十字架の死によって、神と人間の間に実現する平和です。シメオンは神の救いを見て、このお方によって打ち立てられる事になる平和のうちに去ることができると言ったのです。」と、O牧師は話された。

シメオンが見た神の救いは、全ての人、ユダヤ人だけでなく、つまり異邦人にも備えられた救いであると賛美する。そして最後にマリアに警告する。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれる」と。

事実、「救い主」は、ユダヤ人が期待した通りの救い主ではなかった。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「山芋を焼いてあるいは生のまま春過ぎまでのおやつ三昧 野上浩志」


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