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ヨハネによる福音書  11章25~27節 [ヨハネによる福音書]

<イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています。」 (25~27節)>

祈祷会は、日本キリスト教団出版局発行の「信仰生活ガイド『使徒信条』」を学ぶ。今日はその第12回目<「使徒信条12「身体のよみがえり、永遠の生命」 ―究極の希望のもとに、地上の生命を生きる―と題された、日本基督教団狛江教会の岩田昌路牧師の記事を読んだ。

「教会は、使徒信条の最後において『我は・・・身体のよみがえり、永遠の生命を信ず』と、告白します。教会の見つめる希望はどの様なものであるかを、要約して表す言葉です。この言葉に結び付いている、私の経験をまず語らせて頂こうと思います。」と岩田牧師は語り出される。

牧師となって初めて葬りの式を執り行い、極度の緊張で火葬場に向かわれた事。ご遺体が火葬炉へ移され扉が閉じられた時、「主イエスの語られた一つのみ言葉が心の中に立ち上がって来ました」と語られる。それは前掲したヨハネ書11章である。「私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」兄ラザロの死を悲しむマルタに、私に、主が問われているのです。

マルタの声に合わせるように、彼はその信仰によって復活の命を目指しながら、神の御許に召されていきました。死はすべての終わりではない。死んでも生きるという約束を成就するため、主イエスは十字架に死なれ、死の墓から復活され、死に勝利された。私たちもまたその恵みに与っている。

聖書は究極の希望として、主イエス・キリストが再び来られる終わりの日について告げる。終わりの日とは、神の国の完成が成就する日の事である。教会は終わりの日を待ち望み「御国が来ますように」「主よ、来て下さい」と祈り続けている。

「神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなた方のために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者として下さいました。(ペトロ書Ⅰ)」

「希望は生きている」のです。岩田牧師は「主イエス・キリストの復活によって保障される希望は、どのような時にも決して輝きを失う事がありません。教会は主イエス・キリストに結ばれ、罪を赦され、永遠の命を約束された神の子らの集いです。すでに、私たちは地上にあって死への勝利を確信し、永遠の生命に生き始めているのです。」と、結ばれた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「人ごとのように聞きおり子供らが話し合っているわが後始末 今井眞知子」


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