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ルカによる福音書 21章20~28節 [ルカによる福音書]

<このようなことが起こり始めたら、身を起して頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。 (28節) >

「主イエスは、『エルサレムに希望がある』とは、言われません。徹底した滅びを示し、『エルサレムから逃げよ』と、言われるのです。」と、榮牧師は書き出される。

ルカ書と使徒言行録はパウロの医師であり歴史家であるルカによって60年に書かれたとされる。そのルカが、終末について、歴史の終わりについての主イエスの言葉を連続して詳しく記録している唯一の個所が、今日の御言葉である。

「初めに神は天地を創造された。」この言葉から初めがあるなら「終末」もあるという事が暗示される。仏教の「輪廻」では、時は始めも終わりもなく、円循環にぐるぐる回っている。しかし、聖書で時は初めから終わりまで、進みすぎたり後戻りすることなく進む。時間には確かな方向性があり、目的があり、ゴールがあるという事である。

「それは今私たちが過ごす一日一日も、次の明日を作るかけがえのない、意味ある土台になるという事を意味します。」と、O牧師は話された。「ということは、何を目指して、何のために、世界とこの自分の人生が始められたのか。そして、今という時に、何を目指し、何に向かって進んで行くべきなのか、という事の確かな答えを聖書ははっきり私たちに答えています。」と、続けられた。

けれど、絶え間ない戦争、自然災害、地球の温暖化、経験のないウイルスの誕生、地球そのものの前途を悲観する。そのような者に主イエスは「困難があるが、あなた方は守られる。あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい。」といわれる。

そして、終末の徴がエルサレムにと主イエスは言われる。確かに、主イエス召天後エルサレムは瓦礫の山となる。しかし、滅亡はそれが歴史の結論ではなく、いわば「産みの苦しみ」で、歴史を完成する際に除去されるのは罪と悪なのである。「終末によって自分たちは除去されると知るサタンは、一時的に盛んになり、真の主を信じる者たちを壊滅しようと働くのです。」とO牧師は話された。

城壁に囲まれた山の上のエルサレムは人々の避難先であった。しかし主イエスは「エルサレムから逃げよ」と言われる。人間が築いた都に逃げ込むのではないと。世の終わりの破滅は、私たちを飲み込むものではないと。その危機こそ、神の御言葉を聞く時なのだと主イエスは話された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「爪切りのいるほど長き入院と夫はメールに 山茶花散り敷く 宮内笑子」


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