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ルカによる福音書 1章67~80節 [ルカによる福音書]

<ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。(68.69節) >

「『ほめたたえよ』というイスラエルの賛美の言葉で、讃歌が始まります。主はその民を訪れた。ザカリアの目前の事実はヨハネの誕生です。しかしザカリアは赤ちゃんヨハネの背後に、主なる神様が来られたことを見ています。」と、榮牧師は書き出される。

ザカリアは聖霊に満たされて預言する。聖霊によって言葉を与えられ、主なる神のご計画と御心を告げ、神がイスラエルの民を顧みて下さったと賛美する。「起こされる角」とは、聖書では強大な力を象徴し、ここではメシア(救い主)を示す。神はメシアをダビデの子孫から生まれさせると約束して下さった。これは我らの父はアブラハムに立てられた誓い、その契約を覚えていて下さると預言する。

それは、昔から預言者によって語られていたが、イスラエルの民は耳を傾けず、多くの預言者を死に追いやった。それでも、神はアブラハムに約束された通りメシアを送られ、イスラエルの民を救われる。そして、神はメシアを通して、私たちを生涯、神に仕える者として下さる。主は私たちが心から神を礼拝し、神が喜ばれる生き方ができるように、私たちを変えて下さると預言する。

76節では「幼子よ」とヨハネに呼び掛ける。ヨハネは、救い主イエスが来られる前に、悔い改めと罪の赦しを説き、人々に洗礼を施していた。ヨハネは救い主をお迎えするための備えをする者として選ばれた。その頃のイスラエルの人々は「自分たちは神に選ばれた者だから、悔い改めなしで救われる」と思っていた。そのような中、ヨハネは「誰でも悔い改めて、罪の赦しによる救いを頂くのだ」と説いた。

赦し、「これは我らの神の憐れみの心による。(78節)」のです。「それは主イエスの十字架と復活によってなされます。救い主が来られることも、ヨハネがその道備えをすることも、その根源には神の深い愛と憐れみがあるのです。」と、O牧師は話された。

当時、ローマ帝国の属国としてその支配下に置かれ、イスラエルの民は神を信じて生きる事も難しく、暗闇の中に生きていた。しかし、神が「この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者を照らし、我らの歩みを平和の道に導く。(79節)」

「主が来られる時は解放の時です。神様が代価を払い、どんな罪人も買い取りに来られるのです。ヨハネは道を整えます。この道は主の道。罪の赦しによる救いの道です。この道に必要なのは、主を信じて向き直る事です。」と榮牧師は結ばれる。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「<戦争は終わる(ワーイズオーバー)>とレノンのくり返す『ハッピークリスマス』雑踏の中  川述陽子」


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ルカによる福音書 1章57~66節 [ルカによる福音書]

<父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。(63節) >

「ついにエリサベトから子どもが生まれます。人々は、親類の名前を継承する世襲的慣習によって、子供の名前を決めようとします。しかし、エリサベトもザカリアもヨハネと名付ける事を主張します。」と、榮牧師は書き出される。

「近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」、高齢出産であったが、元気な男の子が生まれ、出産を手伝った人々が神に感謝し喜び合う様子が浮かぶ。エリサベトの腕に抱かれた小さな赤ん坊は、神の大いなる慈しみを回りの人々に見せて元気な声で泣く。バビロン捕囚、神殿崩壊以来途絶えていた、預言者の新しい時代の始まりを告げる泣き声である。

誕生から8日目、その子に割礼を施すために人々は集まった。厳粛な場であるが、和やかな喜びに満ちる中、人々は、彼に父の名をとってザカリアと名付けようとした。しかし、エリサベトはそれを否み、「名はヨハネとしなければ」と言った。しかし、母に名付ける権限はなく、人々はザカリアに尋ねた。

高齢の妻エリサベトが男の子を生むと天使から聞かされたザカリアは、その言葉を信じる事が出来ず、天使によって口がきけなくされていた。人々から尋ねられたザカリヤは板に「この子の名はヨハネ」と書いた。エリサベトが告げた名と一致したので人々は驚いた。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。(64節)」 想像を超えた神の業に「皆 恐れを感じた(65節)」

人々はザカリヤが聖所で不思議な体験をし、口がきけなくなった事に、何らかの神の働きがあったのだと知っていた。彼らは舌がほどけた彼が、真っ先に神を賛美し始めたので恐れを持った。この事の全てがユダヤに知れ渡り、聞いた人々は皆これを心に留めた。この子には主の力が及んでいた。

クリスマスイブ礼拝は、通常礼拝よりたくさん讃美歌を歌い神を賛美する。46節のマリアの賛歌、この箇所のザカリアの賛美を読むうち、自分の讃美は神に向かっていただろうかと自省した。ザカリアを囲む人々は、神の御業だと聞かされているが、単なる習慣から「神に感謝」という言葉を使っていたのだ。しかし、高齢出産、子どもの名、ザカリアの舌、重なる出来事に神を見て恐れずにおれなかった。

口がきけるようになったザカリアには、あふれるような思いがあって、賛美せざるを得なかった。彼には賛美以外の言葉を持たなかった。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「婚礼の朝に降る雨ほつほつと静けさの中白足袋を履く 増田美恵子」


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ルカによる福音書 1章46~56節 [ルカによる福音書]

<その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。(50節) >

「マリアは確信をもって大胆に賛美をささげます。神様が憐れみの中で、自分を忘れていなかった!自分に与えられた豊かな憐れみを思って歓喜するマリアは、同時にイスラエルの将来にも目を向けます。」と、榮牧師は書き出される。

「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜び称えます。」と、マリアは言った。自分もクリスチャンの友に便りを書く時、「主のみ名を讃美します」と書き出す。「あがめる」と言うのは、相手を自分より大きくすることであるが、神を大きくするために必要以上に自分を卑下してあがめる事ではない。必要以上の卑下はむしろ神を冒涜する傲慢になるとS牧師は警告された。

マリアの受胎は、神の霊によって宿ったと聖書は証言するが、この時代、婚約は結婚同様であり、律法に従うと夫(ヨセフ)を知らず妊娠した者は、姦通罪が適用され石打の刑にあたる事であった。マリアは罪深い「卑しいはしため」とみなされる。しかし神はあえて彼女にその道を歩ませられる。マリアは 主を称え「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さった」と賛美した。

マリアは自らに起こった神のみ業を、思い巡らし、「み言葉通りになりますように」と神への姿勢を貫き、この信仰において受け入れてゆく。「マリアの貧しい身に神の意志が働いたのです。神の子が宮殿に住む王の子として産まれるのではないのです。神は貧しさ、弱さ、苦しみ、差別など困難な中にある者と、共におられるのです。」とK牧師は話された。

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。(51~53節)」

K牧師は「主イエス・キリストのご降誕によって糾される世界観、主が私たちの世界に肉をまとい来られました。そうして、人間の常識や基準、価値観を根元から覆されるのです。」と、話された。

今年は24日が日曜日、「メリー・クリスマス」教会ではそう挨拶しあう。でも本当に何が嬉しいのか実感がなかった。しかし、受洗から40年、顧みると、主イエスのみ言葉、頭(カシラ)となって下さる教会を通して、自分を縛っていた様々なものから解放されている事に遅まきながら気付いてきた。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「大根の漬かり具合の上々に樽よりひとつ夕餉の卓へ 加藤和子」



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ルカによる福音書 1章39~45節 [ルカによる福音書]

<ザカリアの家に入ってエリザベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いた時、その胎内の子がおどった。(40.41節) >

「マリアは自分の身に起こった不思議な出来事に心騒がせています。御心を受け止める決断を述べても、祝福の確信に至っていません。子どもが本当に祝福となるのか。仮に産んだとして、この子と自分の将来はどうなるのか。全てが未知の出来事を前にして、ただ天使の言葉だけを頼り、旅をするマリアがいます。」と、榮牧師は書き出される。

ルカ書は、洗礼者ヨハネの父、祭司ザカリアに天使ガブリエルが遣わされたと記す。天使は「あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは男の子を産む」とザカリアに告げる。子どもが与えられる事を半ばあきらめていた2人に神の力が働き、エリザベトはみごもった。マリアも結婚する前に、主イエスを聖霊によってみごもった。それは人間には信じられない事であった。

不思議な体験をした2人の女性。マリアは、その喜びと不安を分かち合うために五ヶ月の間身をかくしていたエリザベトのもとを訪れる。

マリアの挨拶を聞いたエリザベトは、「あなたは、女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母さまが私のところに来て下さるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にした時、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃった事は必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。(42~45節)」と言った。

2人の女性は信じがたい言葉に「み言葉どおりこの身になりますように」と受け入れ、そこから偉大な物語が始まる。み言葉どおりとは、人にとっての幸福も不幸も神の摂理(計画)の中にある事を信じて、その事実を受け入れるという事である。礼拝では、救いはそこから始まると教えられている。

エリザベトは洗礼者ヨハネを産み、ヨハネは人々に神の国の到来を伝える預言者となる。しかし、ヘロデ王の不道徳を告発したため、捕らえられ処刑される。マリアもやがて子を産み、その子は、ナザレのイエスと呼ばれ、多くの人々に福音を告げた。しかし、世を乱す者として告発され、ローマ帝国によって裁かれ十字架刑で殺される。祝福を与えられた2人の母は暴力によって子供を奪われてしまう。

それは祝福とは遠い出来事みたいだが、マリアは初代教会の祈りの輪に加えられ、多くの人々が主イエスの語られた福音により「生きる力」が与えられていく姿を見る事が許された。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「地獄を脅しに使う教団あり不安を道具にする保険あり 橋本英憲」

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ヨハネによる福音書  1章1~18節 [ヨハネによる福音書]

<言(コトバ)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。(14節)>

待降節第3主日礼拝。「ヨハネの福音書は、90年頃主が復活され、弟子たちに聖霊が降ってから、60年を経て記されました。福音はユダヤ全土に宣べ伝えられ、3福音書はすでに教会の中で読み継がれていました。使徒の多くは殉教し、彼も90歳。福音宣教が広まり、教会も多く建て上げられ、かなり落ち着きを持ち始めた時、彼はこの書を書きました。」と、K牧師は話し出された。

主イエスが誰であるのか、その本質を3福音書には記されていないとヨハネは感じていた。それにはギリシャ語の「ロゴス」を用いて主イエスを描くのが適していると判断した。ヨハネ書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と始まる。主イエスは神の言であり、神ご自身である。宗教家でもなく、預言者でもない、神そのものであるから全く信頼に値するのであると記す。

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。(3節)」は、創世記1章「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった。」に通じている。主イエスは水をぶどう酒に変え、「ラザロよ、出て来なさい」と大声で叫び言葉によって彼を蘇らせた。主イエスは創造主である神にしか出来ない奇跡を次々と行われた。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(4.5節)」 K牧師は「全てのものを造られた神は、人の命も造られました。人は単に肉体が生きる、また心豊かにというだけでなく、霊的に自分が生きている意味を知って生きるために造られています。でも、それは神に繋がる事によってはじめて可能なのです」と話された。

人々は主イエスを認める事が出来ず、この光を消そうとした。宗教指導者と、彼らによって扇動された人々は主イエスを十字架につけて殺した。彼らはこれで光を消す事が出来たと思ったが、3日目に主イエスは復活された。光を消すどころか、光はますます輝くようになった。

2千年前の人々は、神の存在を信じながらも、宗教指導者の説く神に翻弄され、律法を守り切れない自分の罪を嘆き、人を裁いてしまう状態で暗闇を歩いていた。そのような世に主イエスは、馬小屋で生まれて、飼い葉おけで安らかに眠っておられた。クリスマスの喜びを、全ての人に伝えたい。

ガザにも、イスラエルの国にも、戦場のメリークリスマスはない。彼らは私たちと同じ主なる神を信じる者であるが、主イエスを知らない。

今日の短歌 短歌誌「塔」より

「駅前の小さなそば屋はおばちゃんがおばあちゃんになりどんぶり運ぶ 野口一海」


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